王様の耳は驢馬の耳

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「遊びと人間」を読んで その二

ロジェ・カイヨワによれば、遊びの研究といえば玩具の歴史を指し、一般に遊びは単純で無意味な子供の気晴らしと長い間考えられてきた。 そのため遊びに文化的価値を見出すような研究はされてこなかったのである。

今回は遊びを巡って二つの思想を見ていきたい。すなわち、文化が先か、遊びが先か、である。

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「遊びと人間」を読んで その一

「遊びと人間」は前回まで取りあげた「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」と同じ著者であるロジェ・カイヨワの作品である。遊びに関してはヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、カイヨワもホイジンガを著書のなかで高く評価している。しかしホイジンガの遊びの定義には満足しておらず、作中でカイヨワは独自に遊びを定義し直している。

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「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その四

最後にするが、今回もロジェ・カイヨワの「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」である。前回までに書いておきたかった事はほとんど書いてしまったので、今回は備忘録として気になったいくつかの箇所を書いて終わりにしたい。

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「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その三

戦争は、聖なるものの基本的性格を、高度に備えたものである。そして、人が客観性をもってそれを考察することを禁じているかに見える。 

上はロジェ・カイヨワの「戦争の眩暈」の序文である。戦争を客観的に検証しようとすれば、それは精神を麻痺させてしまい、検証者から冷静さを奪ってしまう。戦争に対する人々の反応は様々であり、そのうち戦争を賞賛するものどれもが説得力に欠けるものばかりである。これに対し、戦争を咎める意見は、疑う余地のない事実を告げている。

Bellona Smiteより

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「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その二

前回に続いて今回もロジェ・カイヨワの『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』を取り上げたい。蛇足かもしれないが、訳者のあとがきに「原題を直訳すれば、『ベローナ、戦争への傾斜』となり、現代社会が坂道を転げ落ちるように戦争へと向かってゆく、その趨勢を意味している。」と述べ、しかしそのままでは日本で出版するには不向きであると判断したようだ。ちなみにベローナは戦争の神であり、軍神であるマルスの妻である。夫婦そろってマッチョであることは疑いない。

さて、前回は封建時代の貴族による戦争の独占と、その特殊な戦争形態を見てきた。この話は興味深いので、もう少し書いておこうとおもう。

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