王様の耳は驢馬の耳

受け売りを書いているだけです。気になさらないで下さい。

「戦争の変遷」を読んで その三

これまでの議論の前提に、戦争はなにかのために行われるという仮定がある。つまり戦争とはある目的のためにする一手段であるというクラウゼヴィッツ的立場にたった議論であるとクレフェルトは指摘する。しかし戦争の目的は多種多様であり、世俗的利益と抽象的理念とが複雑に絡み合い、容易にこれらを分類することを許さない。が、ここでクレフェルトはもっとも重要な戦争形態が抜けているという。それは共同体の生存を懸ける戦争である。

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「戦争の変遷」を読んで その二

戦争とはどういったものなのか。クラウゼヴィッツの「戦争論」によれば、限界のない暴力の行使である。先の大戦を知る我々にすれば当然のことのようにおもえるが、それは現代戦である総力戦の凄まじい暴力にすっかり慣れてしまっているからだろう。前回でも触れたが、国民、軍隊、政府を土台とする三位一体戦争はナポレオン戦争から端を発する近現代の戦争は、数ある戦争の一形態に過ぎないのである。

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「戦争の変遷」を読んで その一

また戦争の話に戻ってしまうのでどうも恐縮である。人気ブロガーであればこうして読者の心を離れさせてしまうのだろうが、筆者のブログにはそもそも離れていくだけの読者を持たないので気楽である。では本題に入ろう。

今回とりあげる「戦争の変遷」は、以前紹介した挑発的だが示唆に富んだ作品である「戦争文化論」と同じ著者、マーチン・ファン・クレフェルトの作品だ。出版されたのは「戦争の変遷」が先なので、紹介する順序としては逆になるが、どちらの著作も戦争に関しては実に興味深い考察がなされている。なお戦争に対して反射的嫌悪感や忌避感をお持ちの方は前作と同じく読まないほうがよいとおもう。

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「遊びと人間」を読んで その二

ロジェ・カイヨワによれば、遊びの研究といえば玩具の歴史を指し、一般に遊びは単純で無意味な子供の気晴らしと長い間考えられてきた。 そのため遊びに文化的価値を見出すような研究はされてこなかったのである。

今回は遊びを巡って二つの思想を見ていきたい。すなわち、文化が先か、遊びが先か、である。

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「遊びと人間」を読んで その一

「遊びと人間」は前回まで取りあげた「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」と同じ著者であるロジェ・カイヨワの作品である。遊びに関してはヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、カイヨワもホイジンガを著書のなかで高く評価している。しかしホイジンガの遊びの定義には満足しておらず、作中でカイヨワは独自に遊びを定義し直している。

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