王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

別れのご挨拶

こちらへ毎週来てくださっている読者の皆さん、こんにちは。ブログ主です。今回はいつもの堅苦しい文体など横に置いて、お別れを述べさせてください。

「文明と戦争」を読んで その二

進化論的観点から戦闘という危険の伴う行為から、どのような報酬が得られるのか。フロイトは人間の基本的な衝動はすべて性的欲求に基づくとし、アルフレッド・アドラーは主に他者に優越しようとする欲求であるとした。しかし実際のすべての現場から得られた…

「文明と戦争」を読んで その一

戦争とは何なのかという素朴な疑問に対して、当ブログは何度も触れてきた。その疑問に正しく答えることはこの世にある難題の一つであろうが、このアザー・ガットの「文明と戦争」はその難題の助けとなるはずだ。 文明と戦争 (上) 作者: アザー・ガット,石津…

「日本人が知らない最先端の「世界史」」を読んで その二

大衆と知識人はどちらが危険だろうか。通説では大衆は扇情的でプロパガンダに流されやすく、逆に知識人は冷静沈着で容易には流されないという印象がある。が、著者はそれがまったくの誤解で、むしろ「学のある」エリートほど「風」に弱く、プロパガンダに流…

「日本人が知らない最先端の「世界史」」を読んで その一

日本の近現代史をめぐる議論が、あまりにも日本中心であること。 というのが著者の福井義高氏の執筆動機である。著者は明治以降、日露戦争を乗り越えはしたものの欧米のような大国にはほど遠い「二流の地域大国に過ぎな」なかった。しかし戦後の主流の歴史観…

「成熟と喪失 ”母”の崩壊」を読んで その二

エリク・H・エリクソンは著書『青年ルター』においてより高次の「父」なる神に直接的に結合することで、反対するローマ教皇やルターの父親への服従を無意味化しようと試みたという。プロテスタントはより強い「父」を求めてはいるが、聖母は認めていない。ル…

「成熟と喪失 ”母”の崩壊」を読んで その一

本書の作者である江藤淳は「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を通して、現代の「母」の不在を論じている。それは明治の文明開化から始まり戦後の現在でも進行している。

「倫理学」を読んで その十八

今回で和辻哲郎の「倫理学」をとりあえず最後にする。ブログ筆者はここまでに三ヶ月弱の時間を読書とブログの更新に費やしたが、個人的に重要だと思うところ以外は触れていない。きっと見落としもあろうし、誤読誤解もあろう。もし読者が間違いに気づいてく…

「倫理学」を読んで その十七

ようやく最終巻の四巻目に入る。和辻はこれまでは諸国民が「為した」行為を考察してきたわけだが、ここからは「何を為すべきであるか」を見ていく。

「倫理学」を読んで その十六

国土の自覚は国家の自覚 人間存在の空間性が人倫的組織として展開することで家や庭、村落や田畑などで具体的場面に表現されていることを見てきた。それらはそれぞれの共同体に「固有のもの」であり、この固有の存在を担っている自然の姿は「地面に一ぱいに敷…

「倫理学」を読んで その十五

歴史は国家の自覚 人間存在の構造として空間性と時間性とがあることを以前に触れた。交通と通信は人間存在の空間性を現し、その空間的な主体的ひろがりは同時に「主体的人間の時間性」を現す。 人間存在は主体的にひろがっている。が、そのひろがりは、主体…

「倫理学」を読んで その十四

引き続いて国家に関する「倫理学」の考察の跡を辿っていこう。

「倫理学」を読んで その十三

前回に続いて和辻の倫理学における国家観を見ていきたい。

「倫理学」を読んで その十二

ここからは第三分冊に入る。ようやく半分を過ぎたことになるが、もうしばらくこの書に付き合うことになる。今回は国家について和辻の考えを見ていこう。

「倫理学」を読んで その十一

今回は文化面から人倫的組織に関する和辻の考察を見てみよう。

「倫理学」を読んで その十

今回も前回に続いて経済を倫理的見地から見ていきたい。

「倫理学」を読んで その九

今回は経済に関して和辻の考察を見ていきたい。

「倫理学」を読んで その八

男女関係が性的衝動のみから出発するのではなく、直接的に愛において人格的に関わり合うことを意味するというところまで見た。今回はその続きである。

「倫理学」を読んで その七

前回は罪責と良心の問題を見てきた。今回は男女関係について見ていきたい。

「倫理学」を読んで その六

前回、人は「信頼に応え真実を起こらしめることが善であり、この善を起こらしめないことが悪である」という命題に至ったところまで考察を進めてきた。

「倫理学」を読んで その五

引き続き和辻哲郎の「倫理学」を取りあげる。 前回は信頼の根拠は人間存在の理法であり、信頼も人間関係も同時にこの理法の上に立つこと。そして人間存在の真相は二重の否定的構造においてのみ現されるもので、それが停滞すれば真実は起こらず虚偽が生じるこ…

「倫理学」を読んで その四

引き続き和辻哲郎の「倫理学」を取り上げていきたい。この本は岩波文庫が出版しているものだが、全四巻にも及ぶ大著であり、和辻の代表作でもあるためしばらくこの本と付き合うことになる。 ちなみにここからは「倫理学」の第二巻になる。哲学書であるため筆…

「倫理学」を読んで その三

社会、世間、世の中などと呼ばれる間柄のなかにおいては孤立的独立的個々人は存在できず、個人は己を捨てることで共同性のうちに埋没することで己を拾うことができるという矛盾を見てきた。ならば間柄を形成する個々人をそうさせる「全体的なるもの」とは何…

「倫理学」を読んで その二

前回は行為する「個人」は人間の全体性の否定としてのみ成立し、人間の全体性は個別性の否定によって成立する人間の二重性を見てきた。さて、近代の個人主義哲学者はこの「個人」の個別的実在性を追求し、人間の共同性を洗い去った先に到達したところを見て…

「倫理学」を読んで その一

和辻哲郎の主著と言えるこの『倫理学』は哲学書であり、前著である『人間の学としての倫理学』を体系的に叙述しようと試みた大著である。和辻自身が認めるように、本著は一見異様に見える。というのも、ありきたりな倫理学書といえば「既成の倫理学の定義や…

「平気でうそをつく人たち」を読んで その三

これまではペック氏が邪悪と呼んでいる個人に関する内容だったが、邪悪ではない大多数の個人、つまり集団の犯す悪についても触れておく。ペック氏は1968年ベトナム戦争でアメリカ軍バーカー任務部隊の一小隊によって行われたソンミ村虐殺事件を取り上げ…

「平気でうそをつく人たち」を読んで その二

邪悪性は家族内に広まる傾向がある 邪悪性が先天性のものか後天性のものであるかは、まだよくわかっていない。とはいえ、悪性のナルシシズムの根源に関わる理論で優勢を占めているのが「防衛現象」である。幼い子供の多くが様々なナルシシズム的特性を示すも…

「平気でうそをつく人たち」を読んで その一

この本は危険な本である。 今回から取り上げる「平気でうそをつく人たち(原題People of the Lie)」著者であるM・スコット・ペック氏はアメリカの著名な心理学者であり、本の冒頭から警告を発する。彼は本書が潜在的に有害なものになることを恐れたからだ。著…

「水戸學要義」を読んで その二

「水戸學要義」に関する投稿の二回目である。 水戸学は徳川光圀公の第一期の創業時代に続き、徳川治保公の第二期の中興時代がある、と著者深作安文はいう。このとき彰考館にいた藤田幽谷は古学と陽明学を水戸学に取り入れ、実用の学となる。それは息子である…

「水戸學要義」を読んで その一

今年最後の投稿になる。 さて、水戸学といえば「大日本史」であるが、その編纂事業を計画したのは水戸黄門で知られる水戸藩第二代藩主、徳川光圀公である。この修史事業は明暦三年(西暦1657年)から明治三九年(西暦1906年)までの、二五〇年におよぶ一大事…