王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「ホモ・ルーデンス」を読んで その二

文化は遊びとして始まるのでもなく、遊びから始まるのでもない。遊びの中に始まるのだ。 上の一節はホイジンガが何度も注意を促しているところのものである。遊びは文化に先んずるものであるが、文化が遊びから始まったのではなく、遊びのなかに始まったとい…

「ホモ・ルーデンス」を読んで その一

とりあげる順番で言えば、ロジェ・カイヨワの前にこちらを先にすべきなのだが、諸事情あって後になった。以前の記事でホイジンガに触れたが、今回はもう少し深く関わってみたい。 表題である「ホモ・ルーデンス」とは「ホモ」は人を意味し、「ルーデンス」と…

「戦争の変遷」を読んで その三

これまでの議論の前提に、戦争はなにかのために行われるという仮定がある。つまり戦争とはある目的のためにする一手段であるというクラウゼヴィッツ的立場にたった議論であるとクレフェルトは指摘する。しかし戦争の目的は多種多様であり、世俗的利益と抽象…

「戦争の変遷」を読んで その二

戦争とはどういったものなのか。クラウゼヴィッツの「戦争論」によれば、限界のない暴力の行使である。先の大戦を知る我々にすれば当然のことのようにおもえるが、それは現代戦である総力戦の凄まじい暴力にすっかり慣れてしまっているからだろう。前回でも…

「戦争の変遷」を読んで その一

また戦争の話に戻ってしまうのでどうも恐縮である。人気ブロガーであればこうして読者の心を離れさせてしまうのだろうが、筆者のブログにはそもそも離れていくだけの読者を持たないので気楽である。では本題に入ろう。 今回とりあげる「戦争の変遷」は、以前…

「遊びと人間」を読んで その二

ロジェ・カイヨワによれば、遊びの研究といえば玩具の歴史を指し、一般に遊びは単純で無意味な子供の気晴らしと長い間考えられてきた。 そのため遊びに文化的価値を見出すような研究はされてこなかったのである。 今回は遊びを巡って二つの思想を見ていきた…

「遊びと人間」を読んで その一

「遊びと人間」は前回まで取りあげた「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」と同じ著者であるロジェ・カイヨワの作品である。遊びに関してはヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、カイヨワもホイジンガを著書のなかで高く評価している…

「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その四

最後にするが、今回もロジェ・カイヨワの「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」である。前回までに書いておきたかった事はほとんど書いてしまったので、今回は備忘録として気になったいくつかの箇所を書いて終わりにしたい。

「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その三

戦争は、聖なるものの基本的性格を、高度に備えたものである。そして、人が客観性をもってそれを考察することを禁じているかに見える。 上はロジェ・カイヨワの「戦争の眩暈」の序文である。戦争を客観的に検証しようとすれば、それは精神を麻痺させてしまい…

「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その二

前回に続いて今回もロジェ・カイヨワの『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』を取り上げたい。蛇足かもしれないが、訳者のあとがきに「原題を直訳すれば、『ベローナ、戦争への傾斜』となり、現代社会が坂道を転げ落ちるように戦争へと向かってゆく、…

「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その一

戦争の話題続きで恐縮だが、筆者は石津朋之氏の著作を何冊か読み、その中で取り上げられたいくつかの気になった著書を読んでいるためである。以前の記事にも書いたが、世間の戦争に対する悲惨だという否定的側面以外の肯定的側面があるのではないかと筆者は…

「戦争文化論」を読んで その三

前回も触れたが、戦争文化が他の文化同様に実用性に欠けた、そのほとんどが「無用の」虚飾であるというのがクレフェルトの主張するところである。では、もしその戦争文化が何らかの理由で十分に機能しなかったらばどうなるのか。著者は四つの結果が考えられ…

「戦争文化論」を読んで その二

今回もマーチン・ファン・クレフェルトの「戦争文化論」をとり上げたい。前回不愉快に思った方は読まないことをお勧めする。おそらく今回も、おそらく前回よりもっと不愉快になるだろうからだ。

「戦争文化論」を読んで その一

理論的に考えれば、戦争は目的を達成する一つの手段である。野蛮ではあるが、ある集団の利益を図ることを意図して、その集団と対立する人々を殺し、傷つけ、あるいは他の手段で無力化する合理的な活動である。 上の一節から始まる「戦争文化論」は歴史学者で…

「インテリジェンス入門」を読んで その弐

前回はドイツとフランスの情報活動に触れた。今回はイギリスの情報活動に関して少し触れてみたい。情報活動一つとってみても、ずいぶん文化の違いが表れてくるものである。 インテリジェンス入門 作者: 柏原竜一 出版社/メーカー: PHP研究所 発売日: 2009/08…

「インテリジェンス入門」を読んで その壱

ご承知だとは思うが、今回扱うインテリジェンスとは知能や知識のことを指すのではなく、諜報活動のことをいう。筆者はあまり技術的なことには関心が薄いのだが、たまたま手にとる機会があったのでここで紹介したい。 著者である柏原氏は本の冒頭で「情報機関…

「戦争学原論」を読んで その参

今回も前回同様「戦争学原論」を扱う。 さっそくだが前回の続きをしたい。

「戦争学原論」を読んで その弐

前回と同じく石津朋之氏の「戦争学原論」についてである。 すでに前回で戦争とは合理的な政治的事象ではなく、文化的事象であることに触れた。この考えは筆者の従来の考えを補強するもので、我が意を強くするものであった。情けない話であるが、筆者は戦争に…

「戦争学原論」を読んで その壱

当ブログでは何度か戦争について取り上げてきたが、大半の人間にとって受け入れ難いものであったとおもう。つまり戦争には肯定的側面があるということである。興味があれば過去記事を参照していただきたい。 今回とりあげる「戦争学原論」の著者である石津朋…

「空気の研究」を読んで その弐

概略に関しては前回触れた。氏特有の観点からの日本における「空気」の仕組みの分析には一読の価値はあろうし、現在でも通じる問題提起であろうが、筆者個人としてはここまで高い評価を受けるほどの内容だろうかと疑問におもう。 「空気」の研究 (文春文庫 (…

「空気の研究」を読んで その壱

「空気の研究」の著者、山本七平はキリスト教徒であり、大東亜戦争ではルソン島で戦い、そこで終戦を迎える。帰国後イザヤ・ベンダサンの名義で「日本人とユダヤ人」出版したのは氏であることはほぼ間違いないようだ。 氏の主張する日本人の特質を「空気」と…

「人体600万年史」を読んで その弐

人体の歴史を学ぶことは、人間という存在を正しく理解する一助になる。生き物である以上、その種の行動様式になんらかの規範が認められるだろう。それに則った生き方が、自然であり自由である。 だから原始的生活に戻ろう、などというのは極論であることはい…

「人体600万年史」を読んで その壱

人類と類人猿の祖先は、およそ600万年前に分かれたという。学者によっては100万から200万年ほど前後するが、だいたいその辺りだろうというのが大方の意見のようだ。 その進化の過程において、人間の身体の健康と病はどのように変化し、農業や産業、そして医…

「大衆の反逆」を読んで その参

前回、前々回に続き今回も「大衆の反逆」のなかの第二部の「世界を支配しているのは誰か?」を扱おうと思う。

投票率と政治への無関心について

投票率の高い低いはどこで決まるのか。昭和22年からの総務省発表の国政選挙における投票率の推移を見ると、最高が昭和33年の76.99%で、最低が平成26年の52.66%である。投票率100%が理想であろうが、そんなことにはならないだろうし、そうなったらなったで…

「大衆の反逆」を読んで その弐

今回も「大衆の反逆」を取り挙げたい。前回は現代の各所に見られる「野蛮」に言及して終わった。大衆の野蛮はとどまるところを知らず、飽くことを知らない。今回は多少重複するがもう少し詳しく、そして、その他にも触れてみたい。 大衆の反逆 (ちくま学芸文…

「大衆の反逆」を読んで その壱

言わずと知れたホセ・オルテガ・イ・ガセット著、「大衆の反逆(桑名一博[訳])」。 以前から読もうと考えて、長い間後回しにしていたがようやく読み終えた。何回かに分けてこれを取り挙げたい。 大衆の反逆 (ちくま学芸文庫) 作者: オルテガ・イガセット,Orte…

「戦後思潮の超克」を読んで

国学四大人(しうし)と言えば荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人である。平田が入って契沖が入らないのはなぜかという議論はさておき、国学者と呼ばれる者は皆古典に深い造詣を持っている。古典を繙くことで古義を明らかにせしめ、日本民族の精神…

「私の国語教室」を読んで その参

前回に引き続いて福田恆存評論集からであるが、今回は「世俗化に抗す」を取り挙げたい。 文章の冒頭に金田一春彦の「日本語は乱れていない」から福田は一節を抜き出す。 要するに私の言いたい事は、乱れている、というのは、決して現代日本語の特質ではない…

「私の国語教室」を読んで その弐

前回、国語の乱れは筆記の乱れであり、知識層の無関心の結果が国語に対する無知を招き、それが国語の乱れに帰着したとまで書いた。今回も引き続き福田恆存著『私の国語教室』を見ていきたい。