王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

今更だが、田村玲子の最期について

ふと思った。どうして田村玲子は逃げも戦いもせず、死を選んだのか。

以下は筆者の考察である。

ところで、寄生獣は筆者が本屋で見つけて、表紙だけで買うことを決め、結果大当りの漫画である。

さて本題だが結論から言うと、田村玲子の死は母親としての行為に他ならぬのではないかということである。

実は彼女(?)の中で母性が生まれて仕舞ったのだ。これを視野に置いて考えるといろいろ説明がつくのである。

上の仮定に従うと、まず田村玲子はある時点から母性が芽生える。すると世の母親がそうであるように、子供を生活の主眼に置くようになる。しかしこのまま子供を育てていくにはパラサイトである自分では到底まともな育児はできない事に気付く。種が違うので当然である。*1

近いうちに人間とパラサイトの中間にいて接点のある泉新一に子供を託そうと考えていたが、探偵の倉森によって拐われてしまう。他のパラサイトであればここで子供は見捨てるはずであるが、彼女は罠だと知っていながらノコノコと出て行く。

そしてまんまと罠にかかるわけだが、ここで最大の疑問である、なぜ戦いもせず逃げもしなかったのかという答えが出る。もうおわかりであろう、我が子を守るためである。

逃げることは無論、戦うこともできたはずであることは、ミギーの台詞からも十分伺える。しかし子供はどうか。怪我を負わせてしまうだろう。それが元で命を落とす恐れも在る。そんな時世の母親は身を挺してでも我が子を守ろうとするはずで、事実、田村玲子もそうしたのだ。*2

彼女にはもはや盾(肉の壁)にしようなどという考えは微塵もない。であるから新一の母親が熱された天ぷら鍋を素手で受け止め、大火傷を負いながらも我が子を守る場面が重なるのである。そうして新一の母を亡くすことで空いた「胸の穴」が塞がる、というよりも母、田村玲子に埋められるのである。

以上が筆者の考察である。如何だろうか。異論もあろうかと思うが、筆者の理解はだいたい上の通りである。今回も最後までお付き合い頂き感謝です。

*1:種が違えば倫理観も価値観もが大いに異なっても不思議でない。パラサイト同士の行動を観れば一目瞭然だ。そして愛情もやはり希薄。その萌芽が無自覚的に存するとしても、人間の母親が抱く愛情には及ぶべくもない。育児に不可欠のものが欠落している以上は不可能である。

新一の家に侵入し家族写真を見ている場面は、彼女が家族とは、母とはなんであるかを確認を試みたのではないかとも読める。

*2:他の意見では仲間の未来を考え、人間との共存を伝えるために自分の命を引き換えにしたとの主張も在るが、徹底した利己主義である彼らが種全体を考えて行動を採るとは考え難い。その上、人間側がそこまで田村玲子の思いを汲み取るとは、到底考えられない。人間からすれば得体の知れない人食い怪物だからだ。

また別の意見では、田村玲子が死んだ後の赤ん坊の身の安全を考え、心証を良くするために抵抗しなかったとの考えもあるが、そこまで打算が働くのであれば無抵抗を取引の材料に使えば良かったはずである。