王様の耳は驢馬の耳

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多様性について

ncase.me

これは或るサイトで紹介されていた、多角形(多種族)社会のシミュレーションである。
前提も過程も、その結果も疑問の残る実験であるが、色々と考えさせられる。

 

 要するにこの手の作者が言いたいことは、理想的である。理想郷を夢見て現実を等閑視する理想主義者の典型的なる例で、正直辟易させられる。理想を持つことは必要であるが、現実を踏まえることも同様に重要であることは論を俟たない。

そもそも、なぜ多様性を認めることが多民族同志で混交することを前提にするのか。多様性を認めるためには、各々が独立していなければならない。全てが同一であれば多様性など存在し得ないのだ。

試みに現在の西欧を見てみると可い。移民問題に呻吟しているではないか。多角形のたとえ話は、全くの空想であると断じて憚らない。自他混交し均一化することが、どうして幸福に繋がり、なぜ平和に繋がるのか。

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多種族の混交(国際化)は均一化であり、多様性の否定である。むしろ諸々の種族は生まれた土地に住み、そこで同種族の文化・宗教・風土の中で生活し、それぞれに発展して行くことが多様性を保証するのではないか。
民族の独立を守ることと多様性を求めることとは矛盾しないはずである。

たとえそれが原因で摩擦や対立が生じたとしても、多様性を認めるのであればこれを甘受せねばならない。時に戦争にまで発展することもあろう。が、それを超克することで人類史を漸進せしめることもあるはずである。*1

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いはゆる理想家のとらはれやすい固定観念は、現実が日に日に理想に近づき、現実の悪はやがて除去せらるべきであると考えることだ。つまり彼らは理想と現実の一致せる状態を理想として、その実現を目指すはなはだ潔癖な現実家であるといふことになる。

一方、いはゆる現実家は、その見えすぎる眼のおかげで、現実化せられない理想に向かって呪詛の言葉を投げつけ、それが実現化されぬ以上、不要なものと見なす。彼もまた、理想の現実への一致といふ状態を理想とするはなはだ潔癖な理想家である。

上は福田恆存である。理想と現実は分立し、決して混じり合うことはない。理想を抱いて現実に懊悩しながら生きることが、志を抱いた人物に許された道であろう。人は幸福でなければならぬと言うが、そんな法はどこにも存しない。*2

人生を思う時、苦味を伴うものである。或る人にすれば苦痛ですらある。理想に届かぬ辛い現実を嚙みしめ味わうことが出来る者だけが、理想を抱くに相応しい。そうでなければ理想が空想化する弊を免れぬものである。

*1:絶滅危惧種を保護する意味は何であろう。理由は幾つかあるが、その一つに自然界の多様性を保ちたいからではないか。であるなら人種や民族をそこに置き換えられない理由もあるまい。

*2:幸福になる為の追求権は在るが、幸福であることの権利はない。もしあると言うなら、幸福でないことを以って政府に対し起訴出来ることになる。