王様の耳は驢馬の耳

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「痩我慢の説」を読んで

f:id:bambaWEST:20161206191107j:plain福沢諭吉 瘠我慢の説 瘠我慢の説

殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。

 

立国は私なり、公に非ざるなり、から始まる福沢諭吉の「瘠我慢の説」からの抜粋である。これを大東亜戦争に当て嵌めて考えると、こうも言える。

たとえ大東亜戦争において、米軍の空爆により幾千万の無辜の人々が倒れようと、国富を喪おうと、それは一時の災いである。
百戦必敗であろうとも、毫も譲らず一日でも国家の運命を長くして、なお万が一を僥倖し、いよいよ策尽きるに至って討死するのみである。こうやって初めて痩せ我慢の主義が全うできる。
冷静な計算から論じれば児戯に等しく、弁解の言葉も無いようだが、古今東西の実際において、いわゆる国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に拠らぬものはない。
痩せ我慢は国の大本、万世の要であり、この気風を損なう不利は百千年の損害で、利益で持って不利益を償うには足らないのである。

一口で言うと、原爆で一億総玉砕するほうがマシだったと言うわけである。左右両方から袋叩きにされそうだが、ともあれ、実理一辺倒の印象の強い福沢が、こんな封建的道徳を説かれるのは意外である。

蛇足だが、我慢とは本来仏教用語である。読んで字の如く、我れ慢心すの意味である。