王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

戦争は無くすべきではない

 過激な表題で煽っているようだが、そんな気は全くないのだ。筆者自身、戦争は無い方が好いという気持ちは人並みにある。しかし人間本性として戦いを否定し去って、果たしてそれが正しいのか否か。ここで考えて見る価値はある。

  以前の記事で松原正氏の「戦争は無くならない」を取り上げた。そこで指摘された幾つかの根拠だけを見ても、戦争がこの世界から無くならない理由が如何に人間本性に根を下ろして居るかが伺われよう。

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 それでも平和を希う人類の想いは真実に違いない。しかし平和が続けばこれに安住し、堕落は避けられない。事実現在の日本がそうである。東アジアの緊張が高まりつつある中で、財政問題や年金問題に汲々としている。

 予算の枠は国家意志の端的なる現れである。その観点から軍事費がGDPの1%を割り込むという事は、つまり平和ボケでは済まされない程の弛緩を示して余りある。まさに国家的怠惰であり、堕落である。

 国が堕落すれば次に待っているのは、滅亡の二文字である。大袈裟と思うなかれ。それが既に弛緩を意味する。平時こそ有事かそれに準ずる程度の緊張を保ち得なければ必ず堕落する。

 勝って兜の緒を締めよとは至言だが、敗戦したならそれ以上に締めねばならぬ。が、日本は兜の緒を締めるどころか、脱いで仕舞う始末である。日本の堕落は敗戦の時点で始まっていたのである。

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 堕落は正さねばならない。人の心は自らを鞭打ち、怠惰と戦わなければ堕ちる他ない。生きるとはつまり自分との永遠の戦いである。それは人も国家も同じである。

 誤解して欲しくないのは、堕落を正す手段として戦争せよという事ではない。堕落の有り様や、望む望まざるとに関わらず戦争は必ず起こる。人の理知でもって回避し得るというのは謬見であり、理知に対する盲信である。従って、いついかなる時でも有事の際には、即座に対応出来る程に緊張を保つという意味に於いて、筆者は戦争を肯定するのである。

 それが取りも直さず、戦争を回避する為の最低限の備えである。弛緩した国を攻める事は、敵国にとってこれほど有り難い状態は他にないからである。であるから、反戦平和主義者は他の誰よりも緊張せねばならぬ。一寸でも対手の食指が動く隙を与えてはならぬ。

 繰り返すが、堕落は忌避せねばならない。緊張せねばならない。自己の内に於いては怠惰との戦いであり、外に於いては他者との競争である。国家も同じである。無論競争が全てであってはならない。が、競争及び戦いは人間の、生物の抜き難い本性であろう。*1

 これを人間の本性から、世界から抜き去ってしまえば、一体どうなってしまうのか。寧ろ不要な混乱を招く事になりはしないか。角を矯めて牛を殺す恐れが無いとは、誰も言えないはずである。故に戦争は無くなった方が、世界は良くなると言える確証はどこにもないのだ。

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 良くなると信じる者は如何なる根拠があるのであろう。歴史は戦史であると言われる程好戦的な人間は、一度たりとも戦争を根絶せしめた事はない。出来るとすれば、それは人類史始まって以来の大革命、人間本性の大革新である。

 その代償はそれに見合うだけのものになる筈である。武力という解決手段、力の論理、それらを放棄した世界を人間はかつて経験したことは無い。一面に於いて人間本性の否定である事の自覚が平和論者にあるのか疑わしい。

 人間の精神生活に於ける平和の中の堕落。現実の国際社会に於ける無戦争世界の不可知的代償。以上の理由から筆者は戦争はなくすべきでないと結論する。軽々しく戦争を語る事は慎むべきであり、批判や批難を受けるであろう覚悟を持って語っている。同様に反戦も語るべきではないのか。

*1:殺人が人間の先天性に根ざすか否かは議論は定まらない。さはさりながら競争が本能であるなら、殺人は効果的選択であることは否めない。