王様の耳は驢馬の耳

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学問と読書 その弐

前回の続いて今回も読書と学問に就いてである。読書が著作をある種の崇拝になると、有害無益に陥る弊に就いて述べた。

 

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 ではどうすれば可いのか。

 

  読書は学問そのものではなく、一方法である。

 エマーソン曰く、

 読書は真個の学者に取りて閑暇の折のものである。もし彼にして端的に神を読み得るならば、他人が神を読んでこれを写し置きたるものに貴重なる時間を空費すべくもない。

 そして、

・・・我らの精神生活にも必ず昼夜がある。その暗黒の来れる時、我らは古賢の光明に燃ゆる燈火につき、黎明を宿す東方に向かって我らの歩みの指導を乞うのである。我らの聴くは言わんが為である。

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 では真の学問とは何か。小楠は言う。

古人の所謂学なるもの、果たして如何と見れば、全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し、日用事物の上にて功を用ゆれば、全て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より、君に仕え友に交はり、賢に親つき衆を愛するより、百工技芸農商の者と咄し合い、山河草木鳥獣に至るまで、其の事に即いて其の理を解し、其の上に書を読みて古人の事歴成法を考え、義理の究まりなきを知り、孜々(シシ)として止まず、吾が心して日々霊活ならしむる、是即ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行し給いしなり。古来聖賢の学なるもの、是を舎(オ)いて何に有らんや。

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 学問とは聖賢の学ぶ所を学び、自ら聖賢たるを期することである。論語の学而第一にも通底する。知を血肉とするは、取りも直さず知と心の一致せしめることに他ならない。遼遠の旅路に目眩を覚える。日暮れて道遠し。