王様の耳は驢馬の耳

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宗教は軽蔑すべき迷信か その壱

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 冒頭から私事で恐縮だが、筆者はこれまで信仰心を抱いたことがない。何となれば自身、理知こそが真理に到達できると信じていたからである。故に宗教などまさに迷信、盲信の極みであると高をくくっていたのである。今でこそ多少の理解は有るものの、信仰を得るまでには至ってはいない。その上で述べるのであるから、至らぬ所もあろう。

 当ブログではかなりの比重を宗教に置いている。しかし筆者は特定の宗教に帰属していない。何故と言えば、信じられないからである。ではなぜ斯くも筆者が宗教を論じるのか。それは宗教が迷信であるという謬見を払わんがためである。

 

  当初筆者は宗教の意義を、道徳の側面に於いてのみ認めていた。なぜならその信仰如何に拘わらず、信者らは各宗教の信じる所に則り、律法でもって自らを戒め、常に省みるからである。

 無宗教家でも十分に道徳的生活は営み得るが、そこに超個人的存在、所謂神仏等の監視がない。従って無宗教家は我欲に対する抵抗手段が自己以外ないのに比して、信者には監視者が居る。故に宗教は個人的には廉潔なる生活者たり得、社会秩序に貢献できるという意味に於いて意義深いと考えていた。

 事実宗教がその実行に於いて現れる所は道徳の範囲を出ないが、これは自己の主観的道徳観を客観的と混同し、自己の良心の内容で以って他人の良心を推し測る傲慢な態度であったと、今では反省している。何故なら、道徳のために宗教があるのではなく、宗教的行為が取りも直さず道徳的であるのだ。善くあろうとするその動機からして宗教的であるのだ。

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 宗教が道徳的であっても、道徳そのものではないとすれば何なのか。大川周明の言葉を引用する。

自己以外若しくは自己以外の生命の存在を自覚して、自身の上にこれを実現せんとの要求、万有を統一する生命を認めて、これを自身の生命に摂し、自身の生命をこれに托せんとの要求、これが取りも直さず宗教的要求である。

 自己は個人的生命という有限の孤立した檻の中から出ることが出来ない。当然そこからは超個人的生命、無限に対する希求が生じる。宗教及びその生活はこの超個人的生命との合一の要求であり、即ち神と人との合一の要求であり、また神の如き完全たらんとする要求であると言える。

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 更にまた、我らは自然のうちにも偉大な生命の活動を観る。咲く花散る花に人生を重ね見るのは、人と花との生命の根底に交渉があり、それが相差し響くためである。それは万物、即ち宇宙、或いは神(神)、または天との交渉であり、この犇々とした相関が生活の事実として我らの生命に上に実現せんとの要求をも生じて来るのである。再び大川を引く。

 されば宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命に対する要求である、自己の生命の十全に対する厳粛なる要求である。而して宗教とは此の要求及び此れに伴う一切の精神現象並びに社会現象の総括である。

 約言すれば、宗教とは不完全なる個人や社会の完全に対する希求である。故に宗教とは儀式に非ず、また聖典にも非ずと言えよう。

 さて、宗教が如何なるものかを見てきた。宗教が如何に人間精神の深く関わっているか、その端緒は掴めたと思う。しかし現代ではこれを閑却し去り、顧みられないのは悲しむべき事態である。なぜそうなったのかは次回に譲る。