王様の耳は驢馬の耳

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自殺は卑怯か その壱

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 自殺は卑怯かどうか。この場合の卑怯とは勇気がなく臆病な様を指すが、自殺には相当の覚悟が必要であることは、今生きている人間であれば誰もが同意するところであろう。自殺する程の勇気があればと、よく耳にする言葉であるが、知ってか知らずかある程度まで勇気が必要である行為だと認めている。ニーチェ曰く、

自殺に対する勇敢は、生存に対する勇敢と同一である。

 今回はこの自殺という議論多き行為に焦点を当てて考えてみたい。

 

 私事であるが、筆者は今まで三回死のうと思ったことがある。一度目は唯だなんとなく、二度目は覚えていない。三度目は比較的最近で、暗澹たる将来に対しての、生きんとする動機と死なんとする動機との均衡が崩れた所為である。端的に言えば、生きようとする希望と死にたいとする願望のバランスが崩れたのだ。

 筆者の中には死に対するある種の憧憬がある。死は解放であると、ある程度まで信じているからだ。そこでは生きる喜びなるものは寧ろ、生に対する執着を惹起するものであり、厭わしい桎梏であり、解放を躊躇わす障害ですらある。

 死後の世界があるとすれば、それが如何なるものかは知り得ない。個人的には唯だ無であると考えている。が、ひょっとすると宗教で教えるような地獄が待っているのかもしれない、或いは天国かもしれない。

 天国であればもっと早く死んでおけば良かったと考えるだろうし、未だに生に恋々としこの世で懊悩している生者を嗤わぬまでも憐れむだろう。もし地獄に堕ちてしまったらば、自殺は愚かな選択であったと悔やむだろう。但し、地獄で味わう苦痛が生きる艱苦に勝る場合に於いて、である。生きているよりはマシだ、生前は将に地獄であったと思ってもなんら不思議はない。

 何れにせよ、自殺者は生者より早く、死後に対する危険は負わねばならない。その危険を冒すだけ動機は、生きたいという気分と気持ちに加え、死への恐怖から、生きることの艱難辛苦と死に対する期待を差し引いた際に生じるのである。無論この例に当て嵌まらない場合もあろうが、少なくとも筆者にとってはそうである。

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 だったら死にたい奴は勝手にさっさと死んでしまえばいい。どうぞご自由に、無理に生きてもらう必要はない。その通り、自殺は個人の勝手であるが、自由ではない。個人は一人独立して生きているのでは当然なく、家族と社会の共同体の一員である。そんな自由は一個人の料簡に委ねられていない。

 つまりここに卑怯と言われる理由が在る。我等は生きている以上互いに依存し、互いに生きて行かんとする暗黙の了解が在る。自殺はこれに対する重大なる裏切りに外ならない。家族や社会は個人に対し共同体として、決して少なからぬ物心両面からの投資をする。況んや近親者にとっては深刻な喪失である。

 故に個人は共同体に対して生きる義務と責任とが有り、自殺はこれらの放棄である。これを裏切っては非難は免れ得ない。自殺者はこれを甘受せねばならない。しかし生きる義務と責任があるとすれば、それに伴う相応の生きる権利、つまり生存権が保証されねばならない。

 生存権についての是非はここでは触れない。ともかく家族並びに共同体は個人に対し生きる義務を課す引き換えに、生存権を最低限保証するという責任を負うはずである。上述した投資がこれに含まれるであろうが、個人が自殺を思いとどまる程度には環境を整える義務を負うことになりはしないか。そうでなければ片務的に過ぎはしないか。

 であるなら、自殺は個人の責任に留まるものではない。社会全体の責任であると言い得る。自殺者とて初めから生存権と義務の放棄を望んでいた筈はない。唯だ環境がそれを困難たらしめたのであろう。無論環境改善の自助努力を求められるのは言うまでもないが、その努力がどこまでが是で、どこからが非であるという線引きは困難である。

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 とはいえ生きる権利の最低限の保証など、個別に定めることは現行の社会制度では不可能である。生活の保証はできても、生存に関わる保証までは行政の手は及ばない。水も漏らさぬ世話など家族でも不可能である。

 自殺を防げぬのであれば、自殺者を批難することは自らの無反省を意味しはしないか。負うべき共同体の一員としての責任を等閑に付したことにはならないのか。難ずる前に何が出来るか、出来たかを考えるべきではないか。近親者でもない他人にまで責任を感じろと言わぬまでも、責任がないのであれば沈黙を守るのが筋ではなかろうか。

 筆者は自殺者の弁護をしたいのではない。しかし自殺の是非が非常に困難であることを述べたいのである。安易に自殺を是とも非ともすべきではない。若宮卯之助は言う。曰く、

 若し、一般に自ら殺すことの是非が、問題となったならば、その答えは予め定まって居る。曰く自ら殺す事、それは悪い。

 然れど、如何なる場合に於いても、如何なる条件の下に於いても、自ら殺す事、それは絶対悪事であるか、問題は茲に到ると、一の厳粛なる問題となる。

 自殺は容易なる問題ではない。一般的には悪事と断じて事足れりとして仕舞って顧みない。が、どんな場合でもそうかと言えば、問題は深刻である。

 多少の悪は、必ず一の善を伴わずに居らぬ。多少の善は、必ず一の悪に伴わずには居らぬ。

 一般に物事は多面的であることは、論を俟たない。絶対悪と言われる殺人に於いてさえそうである。

 ともあれ、批難と遺族の悲しみを承知で、なお死を選ぶ彼等の不幸に憐憫の情を禁じ得ない。そして彼等の遺した言葉の大半はきっと遺族への感謝であるに違いない。過去に筆者が読まれずに済んだ遺書を書いた時も、家族への感謝の言葉と涙しか出て来なかった。この話はもう少し続けたい。