王様の耳は驢馬の耳

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自殺は卑怯か その弐

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 前回は自殺者は卑怯かどうかを考えてみた。今回も続けて考えてみたい。

 さて、よく耳にする自殺者に対しての批難に、弱すぎるという声が在る。だから死ぬのだと言わんばかりである。

[前記事貼付]

  が、結論から言うと、この批難は不当である。個人の強弱など容易に測り得るものではない。特定の環境には弱くても別の環境には耐えられるであろうことは、容易に察しられる。そもそもとして個人は他人の環境に立つことは出来ない。弱者と断じ、己の人生観で以って他人の人生を測ろうとする態度は如何なものか。

 他にも例を挙げれば、そんなことでは社会で通用しないと自殺を叱咤する者は、裏を返せば、自分は社会をよく知っていると曰って居るのと同義である。苟も社会人を自認するのであれば、多様な個性が錯綜する社会が、如何に複雑難解であるかを了解していなければならない。

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 そもそも何時自分が自殺に追い込まれるかなど、誰にも予測はできない。家族の内に難病人を抱える、或いはそれに要介護者が加わるかも知れない。事故や震災で親しい者を失う、ある日から謂れないいじめに遭う、突然の解雇を言い渡される等々。自分が頼よりとする所が失われた時、人は自らの弱さに始めて気付くのである。

 話は少々飛ぶが、筆者は以前ガンジス川の対岸に取り残されるという経験をしたことがある。乾季のガンジス川は人間や牛の死体が点々と転がっていて、将に荒野の様相であった。死肉を漁る野犬に唸られたじろぎ、辺りを彷徨く上を飛び回る野鳥の大奇声に驚かされ、なんとも心細いことこの上ない有様であった。その時自分が如何に無力であるかを骨の髄まで思い知らされた。

 話を戻そう。人は本来弱いのである。唯だただ、弱い。しかしその弱さこそが人と人とを繋ぎ、家族を作り、社会を築き、地上の王者たりえたのである。それを認めるのであれば、弱さは人に備わった不可欠の特性であることもまた認めねばならない。故に弱さを難じるには当たらない。

 最後に自殺は唯だの逃げであると言う批難がある。前記事に多少重なる部分もあろうが、少し論じてみたい。

 戦うべき時に戦わずに逃げる者は、卑怯者と謗られるのは道理である。が、この批難は逃避が更なる事態の悪化を招く際に適当なるもので、退くべき時に退かないのは愚か者である。

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 人生が苦しいのは当然である。人は幸福であるべきとは空想である。苦しい中に生き抜ける見込みや希望が在れば、誰でも生きられる。が、自殺者にとって死以上に最悪の事態は生きることである。

 当事者は内外の要因によって視野狭窄に陥り、客観的には事態は解決可能であるのに、自殺という最悪の選択をして仕舞ったのかもしれない。しかし自殺者は己の視界の狭さには気づき得ない。そして死ぬ苦痛と生きる苦痛の天秤に掛け、死ぬ苦痛を勇敢に選んだのである。

 これは逃避ではなく、決断である。人は常に選択を迫られて生きている。限られた選択肢の内から、自己の器量の許される範囲で、より良いものを選ぶことが生活である。平凡なる生活の選択肢の中にも自殺は在るが、選ばないだけである。自殺者は極端に選択肢が狭まった状態なのだ。迫られている選択を後に回し、事態の悪化を放置することが、取りも直さず逃げである。

 如何にあれ自殺は不幸であるが、生命の尊厳の毀損であろう。これを根拠に自殺を否定する向きもあるが、一応は頷ける。とは言え、生命の尊厳は生きてこその価値であり、死んでしまえば無くなる類のものである。自殺を望む者に生命の尊厳を云々した所で、誰も救われはすまい。

 斯くして自殺は古来道徳家、宗教家や哲学者らの議論の種であった。これからもそうであろう。故に自殺を安易に断じることは、厳に慎みたい。