王様の耳は驢馬の耳

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国民である前に人間か

 

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人は第一に人間でなければならない。人間としての基本が成って、漸く国民であることが出来るのである。

 故に日本または日本人ということに固執するのは、真実の人間となる根拠足り得ないというのである。なるほど、人としての踏むべき道を把握し、未熟なる自己を克服した上で初めて日本国民たることが出来るというわけである。が、筆者の考えは違う。

  まず人間の基本とは一体なんであろう。この点からして甚だ抽象的である。仮にこれを常識としたところで抽象的たる範囲を出ない。人の踏むべき道などオイそれと把握できるものではない上に、また実践に於いて道を踏めるかどうかは一生の課題である。完成を、成人を待っていては、或いは一生国民足り得ないことになろう。

 そもそもある国家、ある社会、ある民族等から一個の人間を抽出して人間の基本など作れようはずはない。特定の風土と風俗の中のいち員としてでしか人間は人間として生活できないのである。

 否応もなく何れかの国民として生を受け、その国民として生きることを迫られる。国民に非ざる人間は存在しない。在るとすればそれは理念の中にだけである。故にこの人間としての基本なるものは、必ず民族的か国民的な特色を持つものである。従って真実の国民となることが即ち真実の人間となる道理である。

 では、真実の国民とは何なのかという疑問が湧いてくる。それは国史より学ぶ外はない。古事記日本書紀万葉集等から始まり、儒教仏教の外来思想を学ばねばならない。

 それだけに留まらない。そこから遡って大和民族精神の源泉を探り、その泉から湧き出る精神の小川の向かわんとする先を知らねばならない。外来思想はこの小川と合流し大河となる為の、大海へと向かう輔けの為の、傍流であることを知らねばならない。

 こうして初めて真実の国民足り得るのである。そうでなければ唯だの日本国住民であり、偶々日本に生まれて住んでいるだけの客人である。外国人と心理において、つまり責任の欠如に寸毫の違いも認められない。

 政治家のリーダーシップの欠如は、ここに起因する。我等が踏むべき道が、方向が、分かっていない為である。当然分かっていない大衆が選ぶ政治家も、何方へ率いて良いのか分からない。稀に分かっている政治家でも、分かっていない大衆を率いて行くのは至難の業であるし、抑々そんな政治家は他に埋もれて出て来ない。

 斯くして日本は混迷を極めているのである。政治は権謀術策の巧拙を競い合う腐敗の舞台と化し、経済は経世済民から離れ机上の実利主義に堕している。国民不在の民主主義国家という根本的矛盾を誰も怪しまない。根無しの浮き草が右往左往するのは自明の理である。主流であることをやめて、進んで傍流となる愚を犯しているのである。

 故に日本人は真実の国民たる自覚を第一に持たねばならない。史学はその大元であり、これが日本国民たる自覚が日本精神を喚起し、その精神が潑剌と活動すれば国が栄えるのである。反対に史学が等閑視されれば、国が衰えるのは避けられないのであり、それが今日の日本である。