王様の耳は驢馬の耳

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戦争と美 其の壱

 今回の投稿は戦争についてである。言わば今までの戦争に関する記事は、地ならしと言えよう。

 以前からの投稿にも増して、まず理解されないであろうことを承知で述べたい。動もすれば左右の別なく袋叩きにされることも分かっているが、これは筆者が幾つかの戦争体験者が残した著書を読んで素直に感じたことである。

 そして戦争に対する世間一般の印象は悲惨の一言であるが、それは戦争の一側面に於いては正しいであろう。が、今回と次回で別の側面を示したい。

  戦争は美しい、と言えば大抵の人は眉をひそめるであろう。厳密に言えば、戦争下にある人々は美しい。どう言ったところで戦争賛美者だと批難されても仕方があるまいが、戦争は、いや、戦争の最中にある者は美しいのだ。なぜなのかを追って説明していきたい。

 戦争は無くすべきであると言う。そんなことはできないし、またすべきでもない。なぜそう言いきれるのかは以前の投稿で二度触れた。一つには人間の抜き難い本性に根差して居る事と、二つには人間は常に正義を掲げずには居られないことである。そうであるなら他の正義とは戦わねばならない。戦わない者には正義はないのだ。

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 しかし、そもそも争いは全然美しくはない。争いが美しいはずはないし、況んや殺し合いにおいてをやである。ではなぜ戦争は美しいと言えば、それは生命を賭して己の正義を信じそれを貫くからである。命懸けで己の運命に順じ、前途ある若々しい生命がそこで燃焼し尽くす。謂わば正義の祭壇に己を捧げる、崇高な犠牲的、言わば宗教的行為なのである。

 そもそもその正義自体が間違っていた。間違った正義に殉ずる事が美しいはずはない。そういう批判も予想されるが、そのような議論は不要である。なぜなら正義は絶対視されるもので、誤りであると断ずるのは敵対者であるし、正しい正義、間違った正義など、互いに互いの正義を絶対視する者同士の不毛なる議論である。

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 議論に戻ろう。さて、人間は考える生き物であるのに、戦う者は考えてはいない。戦いは思考を許さないからだ。故に明日のことはおろか、今日の事さえ覚束ない者は何も考える必要がなくなる。従って考えないことほど人間を楽観的にするものはないと坂口安吾は言う。

 考えない、つまり理知を働かせないのは人間の真なる姿であるのか。真でない者は美しいと言えるであろうか。坂口は違うと言う。彼の「堕落論」から一節を引こう。

 そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 なるほど考えなければ馬鹿である。人間の在るべき姿ではなく、虚偽の姿であると言えるのかもしれない。

 私はきながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。

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 人間真実の美ではない。なぜなら未完の美であるからだ。特攻で散華した者は美しいまま死んだのである。だが特攻で散華できず、生き残り、闇屋に身をやつしてでも生きた者の生は堕ちるべくして堕ち、完成される。が、愛おしくあるが断じて美しくはない。

 だが堕ちなければ人は救われない。特攻隊員は闇屋に、夫の位牌に額づく節婦は新たな面影を胸に、すべからく、正しく堕ちねばならない。虚偽の美では人は救えないのだ。

 節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。

 美しいままの死は未完であり、未完の美は真の美ではない。虚偽の美しさであり、泡沫のような虚しい幻影にすぎない。だが、はたしてそうか。次回に続けて考えてみたい。