王様の耳は驢馬の耳

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戦争と美 其の弐

 美しいままの死は未完で、未完の美は真の美ではなく、虚偽の美しさであって、泡沫のような虚しい幻影にすぎないのか。前回に続いて戦争の中の美しさに関する考察を続けたい。

 前回同様予め断って置くが、これは戦争の悲惨さだけを高調する世間一般に対する別の一側面を示さんとしたものである。早速始めよう。

 

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  美しいままの死は虚偽であり、泡沫のような虚しい幻影に過ぎないという坂口安吾の主張であった。果たして考えない人間は人間真実の姿ではないのだろうか。否、考えないのではなく、彼らは信じたのである。自分の犠牲が必ず国を救うと全員が信じたのである。信仰には思考は不要であり、時に障碍ですらある。

 戦場へ向かう兵隊の粛々たる行軍は、己の運命に順ずる信徒の行進の如く胸を打つ。内地に於いてさえ信徒らを励まし、援け、倣わんとし、国全体が一つの信仰に収斂する。己の正義を貫徹せんとする様が、真実の美しさでなくしてなんであろう。

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 この信仰は間違ったものだ。信仰など迷信である。そう言う者もあろう。だが信仰はそれを持たざる者には理解は出来ない。そもそも理知のみで推し測るべき類のものではないし、これがわからねば理解することは疎か、信仰に触れることもできない。もはや情報を識らされ過ぎたる現代人には手の届かぬところに在るのである。坂口安吾もそれに洩れない。

 美は信仰から生まれる。試みに見れば、世の名作は信仰から産まれ出ている。正義を信じる至純を胸に、戦って死ぬことで美は完成したのである。従って戦争を美化することは華飾であり、完成されたものに余計な装飾は全くの蛇足であり、それこそが虚偽の美であろう。

 堕落した生は救済だが、信仰の美には救済はない。どちらも真実ではないか。二律背反する二つの命題が個人の中で葛藤しつつも同居しているのが人間本来の姿ではなかろうか。が、救済は信仰の前にその色を失う。大川周明曰く。

・・・最早人々は悪魔の重囲に陥りて四面楚歌を聞くの嘆きを発するには及ばぬ。其等の人々に取りては、艱難は却って光栄を、死は却って生命を意味する様になる。現実に勝る理想の生活は、決して値を払わずして獲得する事が出来ぬ。それを惜しむ人が如何で天国に入り得るか。生命を全うせんとするもの却って之を失い、生命を失うもの却って之を得る。

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 信仰を抱く者にとって艱難は却って歓喜であり、苦痛は却って誉れとなるのである。失うことで得るものは生命であり、この世に於ける勝利である。救済が不要なのではないが、堕落した生に拠って救われること以上の救いを得ることが出来るのである。今一度大川の言葉を引く。

 一日の労は一日にて足り、明日のことを憂うるに及ばぬ帰依信楽の生活である。有限に即して無限に生き、一時に即して永遠に生くるこの境地こそ、唯だ神の国の人々のみが知る得る平安と光栄との消息である。

 ここに兵士と信徒の生活の統一を見る。彼らはその刹那々々に永遠を勝ち得たのである。戦争とは一面に於いて宗教的行為であり、兵士は犠牲者で自らの生命を供物として捧げたのである。従って彼等は断じて戦争被害者ではない。

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 斯くて彼らは永遠となった。我等の胸の内に彼らの永遠を蘇らせることが、福音となるはずである。

 筆者の述べたいことはほぼ以上である。今回だけで言い尽せる事柄でもない上に、長くもなったのでここで区切りたい。今後筆者の考えも変わってくるであろうから、その時はまた改めて論じてみたい。くどいようだが、飽くまでも戦争の一側面を示さんと試みたものである。

 最後まで忍耐強く読んで頂いた読者に感謝したい。最後に、戦争を知らない者の言であるとの批判は甘んじて受けよう。しかしながら戦争を知らないと批判する者もまた戦争を知らないのである。