王様の耳は驢馬の耳

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日本の於ける理性の傳統を読んで その参

 前回の記事で「自由」に触れたが、今回は少しこれに言及してみたい。前回からの繰り返しになるが自由は明治以降FreedomやLibertyの訳語であると言われているが、俗説に過ぎない。これはもともと仏教語で大陸から伝わり古くから日本にあり、日本書紀にも見られる言葉である。

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 東洋的自由を把握するに避けては通れないのが鈴木大拙である。彼の著作から引用するのが近道であろう。

元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。・・・西洋思想の潮のごとく輸入せられたとき、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、仏教の語である自由を持って来て、それにあてはめた。それが源となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。

  であるから、いわゆる西洋かぶれで、いかにも浅薄な思想に浮かれたものだと苦言を呈されている。ともあれ、西洋の自由には束縛や牽制から解放されるという否定的・消極的意義しか持たないのだという。では東洋的自由とはなにか。

自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もない、「自(みずか)ら」または「自(おのずか)ら」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。

 天地自然の原理という字眼が目を引く。これはどういう意味であろうか。大拙によると「老子」に「道は自然に法(のっと)る」と言う。自然とは「自ずから然る」の義で、仏教で言う「自然法爾(じねんほうに)」である。ここに明恵の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」に通じるものが明らかに見て取れる。続けて引く。

松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。

・・・「自由」とは、自らに在り、自らに由(よ)り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることである。そうしてこの「自」は自他などという対象的なものではなく、

 絶対独立(唯我独尊)の「自」であることを忘れてはならないと強調する。これが90歳を越した大拙の最後に到達した地点なのだ。

 この自由は古代から現代でも使われる意味の自由とは、明らかに高次にある積極的かつ創造的精神の自由であり、西洋語と翻訳語の自由は低次に位する「ほしきまま」の意義である。西洋的、翻訳語的自由は放逸と混同しがちである。放逸は自制ができないため自由自主とは正反対で、まったくの奴隷性であると大拙は釘を刺すことを忘れない。

 さて、前回は「道理(理性)」と、今回は「自由」とを見てきたが、小堀桂一郎先生が述べておられる、鎌倉時代からが近代の始まりとする説の根拠を並べてみた。当ブログ筆者の説明が至らぬ点も多々あるが、なるほどと頷くところがあったと思う。この本は次で最後にしたい。

 

日本人の「自由」の歴史―「大宝律令」から「明六雑誌」まで
 

 

 

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