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王様の耳は驢馬の耳

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日本資本主義の精神を読んで その参

前回は梅田梅岩の思想の基礎となった、鈴木正三を見てきた。今回は江戸時代の中流サラリーマン、石田梅岩に焦点をあて、山本七平氏の著書を通してその精神構造の基本を本著を通して見ていきたい。

bambawest.hatenablog.com

 

石田梅岩は「石門心学」の始祖であることはよく知られている。どこの学派にも所属しなかった在野の儒学者であるため肩書もなく、無学歴を理由に無学と蔑まれもしたようである。またサラリーマンとしても大成したわけではない。それは梅岩自身の問題ではなく、外的要因、奉公先の倒産や中途採用が原因であろう。

梅岩は黄檗宗の禅僧、小栗了雲に師事したと言われている。了雲は後継者に梅岩を選ぶが、彼はあっさりこれを断っている。なぜと問われて、何かあれば自分で新たに述べると答え、了雲もこれを喜んだという。

四十二・三歳の時に奉公先を辞め、四十五歳の時に自宅の一室で年齢も性別も問わず、謝礼も受け取らない無料の塾を開くが、当初無学を理由にずいぶん馬鹿にされたようだ。近所の子供に門前で呼ばれて出てみればもう居ないといった、俗に言うピンポンダッシュのような揶揄も受けたという。

ともあれ、人伝いに梅岩の評判も徐々に上がり、門人は四百人にも達したという。著書はいくつか遺したが、代表的なのは『都鄙問答』や『倹約斉家論』である。前置きが長くなったが、彼の思想が如何なるものかを見てみよう。

 梅岩の思想は正三の基本思想である「月」「心」「医王」を「天」「(本)性」「薬」に置き換えただけで大意は異ならないが、特徴としては宗教性がないことである。正三は「一仏」に人格神的意味付けをしているが、梅岩の「天」や「薬」にはそれらを主体的に使おうとする非常に理神論的で、そこに人格神的要素は含まれない。「理屈者」と自認する梅岩らしい世界観である。

 そして彼においては採用したある著作者の本意や文脈に囚われず、自分にとって使えるものは誤用であろうと利用する、断章取義の精神がある。役に立つなら記紀、仏典、四書五経、何であろうと一切構わない。まことにプラグマティストであると言えよう。

さて、上記の「(本)性」であるが、梅岩はこれが何であるかを理屈詰めで徹底的に考える。これを当時の庶民にはわかり難いという理由から、弟子の手島堵庵が「本心」と言い換えている。ではこの「本心」とは如何なるものかと問われて、答えられる者はいまい。小栗了雲は「(本)性に目なし」と言うが、理屈者の梅岩は満足できない。

そしてこう考えた。人間は万物の一つである。万物は「天」より生まれる。そして、万物は形を持っており、形が即ち心である。例えばボウフラは刺さないが蚊になれば刺すのは、形に由る心である。無心であれば反って形に従うのは「自然の理」である。この原則は人間も同様であり、社会秩序の基礎となるのは人間の形であり心である、と。

そして、蚊が血を吸って生きるように、牛馬が草を食んで生きるように、人間は労働によって食を得る形の生き物である。この形に、つまり自然に従って生きることで「天」に適合し秩序が形成されるのであると梅岩は考えた。

梅岩は上記の思想を商人一般に結びつけた。武士が忠誠によって録を得るように、商人は売買の利で録を得るのと同様であるとして、当時反社会的存在と看做されていた商人の社会的立場の正当性を主張した。さりとて、欲心に駆られ利潤を追求すれば道から外れてしまう。

吾が禄は売買の利なるゆえに買人あれば受けるなり。呼ぶに従いて往くは、役目に応じて往くが如し。欲心にあらず。士道も君より禄を受けずしては勉(務)らず。君より禄を受けるを欲すると云て、道にあらずと云はば、孔子孟子を始として、天下に道に知る人あるべからず。*1

武士が主君に忠であるように、商人は買人へ奉仕することを専らとし、欲心を抱いてはならないと武士のモラルを援用し、商人の心構えを説いている。つまり正三の言った「正直」から利を得ることは「天」に従う行為であるというわけである。

次に「倹約」を見る。約言するなら、山本氏の言葉を借りれば「自制の倫理」乃至「消費の倫理」である。つまり「倹約」によって身を修めば奢らず、家が斉(ととの)い、「孝」ができ、国が治まり、天下が平らぐ。「倹約」は仁の本であるということである。

倹約の事を得心し行うときは、家ととのい国治まり天下平なり。これ大道にあらずや。倹約をいうは畢竟身を修め家をととのえん為なり。大学に所謂、天子より以って庶人に至るまで、一つにこれみな身を修むるを以って本とすと、身を修むるになんぞ、士農工商のかわりあらん、身を修むる主となるは如何。これ心なり。

「倹約」は人の道であるから、貴賤の別はない。道義的には士農工商みな平等であると言うわけである。この「倹約」に反する悪徳が「名聞」「利欲」「色欲」であり、生まれながらの「正直」に背く行為である。それはつまり「天」の秩序に背き、「本心」即ち「形」の通りに従うところの「自然の理」に反することになるのだ。

天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本私欲なき者也。このゆへに我が物は我が物、人の物は人の物。貸したるものはうけとり、借りたる物は返し、毛すじほども私なくありべかかりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。我願ふ所、人々ここに至らしめんため也。

ここで注目すべきは梅岩が、商人の徳目である「倹約」と「正直」とが「天理」にまで押し上げたことである。しかしこれに異を唱えるのは『日本精神史研究』を著した和辻哲郎である。次回はこれを見ていきたい。

 

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神

 

 

*1:読みやすく改変した。