王様の耳は驢馬の耳

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意識の超問題に悩む その壱

自分とは一体何なのか。そんな疑問は中学生までに卒業しておくものであろう。そんな疑問を抱えたまま大人になってまだ引き摺っているとすれば、余程の閑人か空想人ぐらいであろう。現代人は忙しいのだ。生活とは直接交渉のないことにいちいち拘ってなどいられないはずである。それでも筆者がこの問題に引っかかって未だに抜け出せないのはどうしたことか。

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 スワンプマン(沼男)の思考実験がある。Wikipediaから引用する。

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマンと言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。

沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

 さて、このスワンプマンは雷に打たれて死んだ男と同一人物であろうか。第三者から見ればそうであろう。しかし死んだ男とスワンプマンの自己意識は同じものであろうか。恐らくこれは別である。なぜならもし雷に打たれた男が死ななかったらば、男とスワンプマンが自己意識を共有することはできないからである。試みに双子やクローンを想像してみればよい。彼等はまったく同一、同質の形状と遺伝子を持っているが、自己意識は共有できないのだから。

では双子やクローンがまったく同一、同質の人間でありながら、なぜ特定の意識する個人であるのか。言い換えれば、なぜ双子の一方である自分は、もう片方の双子ではなく自分なのかという疑問が湧いてくる。別段双子である必要はない。自分が偶々自分である必要はどこにあるのか。

考え出すと切りがないが、確かなことは自分は世界にたったの一人しか居ないことである。だから尊いのかといえば、自分にとってはそうかもしれないが、他人にとっては多勢の中の一人である。確かにごく親しい他者にすれば、自分は貴重な存在であろう。しかしそれはたとえ親であろうと自分達の子供であれば、自分でなくてもよい。つまり子供であれば誰でもよいし、欲を言えば良い子であれば猶よい。

そのように誰でもよかったはずであるのに、自分は存在するのは不思議である。世界が存在するためには、自分がそれを認識しなければならない。自分の始まりが世界の始まり、つまりはビッグバンであり、自分の終わりは世界も終わる。世界には謎が多々存在するが、それでもこれほどの謎はあるまい。自分が存在しなければ世界の謎もまた存在しないのだから。

世界の起源であり、世界の中心である自分がなぜかくも卑小な存在であるのか。まったく腑に落ちないのである。恐らくは筆者は歴史に何の足跡も残さずに生涯を閉じるであろう。ではいったいなんのために自分が生まれてきたというのか。神が居るのならば答えてもらいたい。足に縋って教えを請いたくなる気持ちを抑えられないのだ。

まだ科学が宗教に対して反旗を翻さず、宗教の教える世界に住していた時代ならば、これほど自己意識の不思議に悩まされることはなかったであろう。しかし現代ではそれを許さない。何人もこれに答えることはできないのである。

ある者は自意識過剰だと嗤うであろう。だが長い間自分の存在の意味に悩まされてきた。が、ある時に昭和五十年代に茨城県の沼地で前大戦中に墜落した小型戦闘機が発見されたという記事を読んだことが契機となって、一つの答えを見つけられた。