王様の耳は驢馬の耳

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「日本の歴史をよみなおす」を読んで その弐

網野善彦氏の上梓された『日本の歴史をよみなおす』の紹介の二回目である。前回の終わりに少々厳しいことを書いたが、日本の慣習を知るにおいては量著であると思うので、今回もその続きである。前回と同様に概略を箇条書きにしていきたい。

 

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「非人」という言葉は読んで字の如く、人に非ずである。現代では差別用語として歴史の教科書で触れる程度で、今では使うものは皆無であろう。通説では「身分外の身分」として社会から疎外された存在であるとの認識である。

学界のなかではまだ市民権を得ていない*1考え方であると断りつつ著者は述べる。

……非人は一般の平民百姓や不自由民である下人とも異なる……神仏直属の神人、寄人と同じ身分と考えることができるので、ある種の職能民の一面も持っていると思っております……

律令時代には「穢れ」は畏怖感を持って捉えられており、「非人」たちはそれを清める得意な能力を持っていると見做されていた。乞食なども文殊菩薩の化身であるとの考えがあり、邪険に扱えば仏罰が下るとされていた。従って「非人」自身もその職能に誇りを抱いていたと考えられる。

十三世紀末期にこの「穢れ」に対する意識が変化してきたという。つまり「穢れ」に対する畏れが希薄になっていく。それに伴い「穢れ」に対する忌避感、差別観、賤視の方向で表に現れてきた。

話は飛んで租税制度に関して一つ取り挙げておく。租税制度は一般平民の生活の慣習を、公に対する負担として制度化したという性格を持つ。わかり易い例で言えば「租」「傭」「調」の「祖」などは水稲耕作の循環に伴う習俗を制度化したものである。そこには平民の自発性も組み込まれていると網野氏は言う。

そもそも「公」は「大宅(おほやけ)」の意味であり、日本人には古来共同体の一員であるという自覚があったのであろう。

年貢・租税を廃棄せよというスローガンを公然と掲げたことは、古代から近世にいたるまでほとんど見られないのです。租税、年貢を減免せよ、軽減せよという運動は無数におこっていますが、年貢をすべて撤廃せよという運動は見られないのです。

ところで、土一揆に関してであるが、これは農民が幕府に徳政令を求める要求活動であるが、土一揆そのものの標的は幕府ではない。酒屋、土倉、寺院などの金貸し業者に対して借金の帳消しを求めて行うのがほとんどである。

暴動的な武力行使一揆なのではない。一揆を行使する固く結束した共同体自体が一揆なのである。さも支配体制に対し、時に武力行使を伴う政治的抵抗運動として捉える風潮があるが、これは明らかに誤った認識である。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:1991年当時