王様の耳は驢馬の耳

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「私の国語教室」を読んで その壱

昨今、日本語が乱れているとよく耳にする。文化庁の意識調査によれば、七割以上の回答者が乱れていると考えているようである。どのように乱れているのかを考えるにあたって、その基準となるものは過去の日本語以外に外はないが、我々日本人は「現代仮名遣い」及び「当用漢字」についての反省は恬として加えない。

これに注意を促す意味でも福田恆存の『私の国語教室』は多くの示唆を与えてくれる書である。今回はこれを扱ってみたい。

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国字改良論なるものが議論され初めたのは江戸時代の終わり頃、前島密の建白書である『漢字音廃止之義』が最初であろう。それ以降難解な漢字の使用を止め、仮名文字のみで文章を書き、口語と筆記を統一する「言文一致」の議論が事々に行われてきた。

現在では「現代仮名遣い」と「当用漢字」が制定され、国民はこれを基に国語教育を受けている。それ以前は江戸時代中期の僧であり国学者の契沖が定めた「契沖仮名遣い」を発展させた「歴史的仮名遣い」を用いていた。が、昭和二十一年(1946年)、敗戦のどさくさに紛れて告示される「現代かなづかい」に改定されている。

「現代仮名遣い」は「現代かなづかい」が目指すところの一音一字、一字一音を原則とする表音主義を踏襲し発展させたものであるが、「歴史的かなづかひ」にかなりの部分で妥協している。例えば「は」を「わ」、「へ」を「え」、「を」を「お」と書かないことからも容易に理解できよう。

福田によれば例外づくしであり、もし原則を貫くとすれば表音文字の使用によってのみ可能であるという。このような事例は枚挙に暇がないないので、詳しくは本書に当たっていただくとして、殊に興味を惹くのは次に引く一節である。

…表音主義といふものは、いはば革命のためのスローガンのやうのもので、舊政権たる歴史的かなづかひを打倒する前にこそ便利必要であれ、革命成就ののちもなほ新政権「現代かなづかい」を正當化するには、いや、いかなる表記法にもせよ、それが表記法であるかぎり、それを保證するには、権威ある不動の原理とはなりかねるものなのです。

 この権威ある不動の原理は「表記法は音にではなく、語に随ふべし」という「歴史的かなづかひ」の原則であるという。つまり「現代かなづかい」「現代仮名遣い」ともに「歴史的かなづかひ」の一部が残存しているのではなく、原則そのものが生き残っており、表音主義はこれに抗し得ずに、妥協せざるを得なかったというのが実情であろう。

つまるところ国語の乱れは筆記の乱れなのである。知識層の無関心の結果が国語に対する無知を招き、それが国語の乱れに帰着したのだ。

 

福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室

福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室