王様の耳は驢馬の耳

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投票率と政治への無関心について

投票率の高い低いはどこで決まるのか。昭和22年からの総務省発表の国政選挙における投票率の推移を見ると、最高が昭和33年の76.99%で、最低が平成26年の52.66%である。投票率100%が理想であろうが、そんなことにはならないだろうし、そうなったらなったで異常であろう。
とりあえず70%程度が高く、50%程度だと低いと言えそうだが、その差は20%程度である。10人に2人が投票に足を運ぶか否かが高い低いを分けているようだ。

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news.yahoo.co.jp

低い投票率の要因のひとつとして若者を中心に無関心が高まっている*1とよく耳にするが、そもそも無関心なものに参政権が与えられている現状自体に問題があるのだろう。

成人と同時に(今は18歳か)国家に対するなんの宣言もなく、有権者としての自覚もなく、その能力の有無も問われず、なんらの用意も準備もせずともポンと渡されるものに関心を持て、と言われてもどだい無理な話だ。
 
ならばその資格と能力を備え、国民としての責任を果たす用意のあるものに限って参政権を与えてはどうかと思いつくが、そうなれば投票率自体は高まるかもしれない。が、それが必ずしも「国が良くなる」ことの保証にはならないだろう。
 
それにそうしたところで、良いか悪いかは別として、一部の運動家や思想家に政治が大きく左右されかねないし、大衆の良識なり常識が反映され難いことにもなろう。さらに参政権を持たない大衆が国政に対して強い不満を抱いた際には、それが向かう先に選挙がなければ暴動という形に表れてしまうかもしれないので、むしろ社会不安が高まる恐れがある。
 
それなら不満でも現状に甘んじればいいのかと言われれば、素直には頷けないし、このまま政治に対する無関心が拡がる様相を座して見ていることは、心ある国民には耐え難いものがあろう。それと同時に民主主義の運用がいかに難しいかを痛感させられる。
 
やはり教育か、ともおもいつくが、現行の学校制度では志まで育てられるのかは疑問が残る。明治の誰が言ったか失念したが、学校制度は先進国なら遍く整備されているが、学校教育からは偉人は生まれない、というようなことを読んだことがある。つまり、秀才と偉人を分けるものが志であるならば、整然とした教育制度のもとでは優秀な人材は育つが、志までは育てられないということであろう。
 
志は制度から育てられないのであれば、その外の、恐らくは人から人へ与えられるものであろうし、それが育つかどうかは当人の資質にも関わってくるものだ。したがって制度でどうこうできる類のものかどうかは疑問なのだ。
 
参政の資格と能力という話に戻るが、その点で自分を顧みればとても胸を張ることができない。自信が持てないのだ。二度目の安倍政権が誕生する際には彼を信じて意気揚々と投票したのだが、その後の彼や自民党の国家運営を見ていると自分が政治というものの難しさをまったくわかっていないの未熟者だったと、今では忸怩たるおもいでいっぱいだ。
 
それ以来選挙という行事の度に後ろめたい気持ちが付きまとい、自分が投票していいのかどうかわからないまま投票所に足を運んでいる。投票など自分には荷が勝ちすぎて、できることなら参政権を返上したい気持ちさえある。
とはいえ、そうもいかないので自分なりに努力はしているが、無論十分とはいえない。であるから、ほんとうなら政治に無関心な人を嗤ってはいけないはずなのに、ふとした時にそれが口をついて出てしまう。
 
以上だが、今回の記事はFBの友人が投票率の低さを嘆いておられたので、筆者も少々思う所を書いてみた次第である。ここまで読ませてなんの答えも出してないと叱られそうだが、答えを出せるだけの知性を与えられてはいないようなので、己の姿勢を示すに留まってしまうことはご容赦いただきたい。

*1:無(ゼロ)が高まる?