王様の耳は驢馬の耳

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「大衆の反逆」を読んで その参

前回、前々回に続き今回も「大衆の反逆」のなかの第二部の「世界を支配しているのは誰か?」を扱おうと思う。

 オルテガによれば「支配」を力に基づかない「人間の間の安定した正常な関係」と定義しており、「権力」とは一人、あるいは集団が自由に使える社会的装置、または機械と捉えている。従って、権力だけ持っていても安定した正常な関係を被支配者との間に築けなければ、支配したことにならないわけだ。

では人間社会において支配という現象の根源とは何かといえば、すなわち世論である。世論は力でどうにかなるものではないことは自明であるがゆえに、タレーラン=ペリゴールはナポレオンにこう言ったという。

陛下、銃剣をもってすれば何事もできますが、ただ一つ、できないことがあります。それは、銃剣の上に安座することです。

つまり支配することは、世論の均衡状態を保つことであり、世論に逆らっては支配はできないというわけである。

このことからわれわれは、支配とは一つの意見の、したがって一つの精神の優位を意味するものであり、支配力とは、つまるところ精神力にほかならないことに気づく。そして歴史的事実はこのことを明確に証明している。

しかし大多数は意見を持っていないため、意見を持つよう力を行使せねばならない。意見がなければ混乱を招く。従って支配者の不在は混乱の支配するところとなり、支配者の交代は意見の交代である。

創造的な生とは活力に満ちた生であり、それはただ、次の二つの状況下においてのみ存在可能である。すなわち……支配するか服従するかである。

忍従ではなく支配者に敬服して命令に従い、支配者と一体化し、熱意を持って参加することで、初めて生は高い品位と尊厳を獲得できるというのである。

さて、ここで大衆に関しては一旦終わりにしたい。ここまで読んできて鋭い読者はお気づきだろう*1オルテガはあまり「国家」という言葉を使っていない、というより避けている節がある。そこで前々回の記事で彼が汎ヨーロッパ主義者であると書いたことを思い出してほしい。彼は言う。

もともと国家は、様々な血と言語の混合の上に成り立つ。つまり国家はあらゆる自然社会の超克であり、混血的で多言語的なものである。

彼にしてみれば、国家とは統治の技術に過ぎず、人造物でありより良く生きるため創った文明の道具である。真の哲学こそが窒息しかけた現代の国家、つまり大衆の反逆から「ヨーロッパ(文明)」を救いうる唯一のもの」であるという。

さらに、国家は「完全に想像力の産物」として始まり、国家的発展の限界は「自然がその民族の想像力に課した限界」であるという。ゆえに古代ギリシャやローマは民族の想像力の限界の壁の中に留まり、壁にまで至った後はそこから開放されずに衰退したと分析している。そして現代(1930年頃)ヨーロッパも国家、乃至民族の壁に到達していると考えたのだ。

国民国家を形成した力は血でも言語でもない。初めに存在していた赤血球や音声の差異を平均化したのは、むしろ国民国家のほうである。……国家がそれ以前に存在していた血もしくは言語上の同一性と符合したことは、……まずほとんどないと言えるだろう。

さらに、

国家主義は単なるマニアであり、新しい物を発明する義務と偉大な事業に参加する義務を逃避する口実にすぎない。

彼が汎ヨーロッパ主義を標榜していたことは、これで十分わかるだろう。当時のヨーロッパ社会の道徳が衰退し、混乱の度合いを深めるなかで、唯一の救済法が汎ヨーロッパ主義であり、新しい秩序、新しい道徳の構築をオルテガは求めたのだ。

ただわずかに、ヨーロッパ大陸の諸民族集団によって一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をうながすことになるだろう。そのとき、ヨーロッパは再び自信を取り戻し、必然的に、自分自身に多くの要求を課すにいたるだろう。

オルテガは新しい世界に新しい秩序を求めたが、私見に従えば、これは誤りであろう。道徳や規範は未来から得られるものではなく、過去から来るものである。そんなことは彼も知っていたはずであるが、自由を求め、服従することを拒む大衆を目の当たりにして、恐れ慄くあまり、過去の道徳や規範に自信を喪失してしまったのではないだろうか。オルテガは言う。

驚きに見開かれた目こそ知的な人間の属性なのである。それだからこそ古代の人びとはミネルヴァに、つねに目を光らせた鳥である梟をあたえたのである。 

 ミネルヴァと梟は共に智慧を司る象徴である。ヘーゲル曰く、

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ 。

 黄昏を迎えつつあるかのような今日のEUを、オルテガはどうおもうだろうか。

 

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:この言い回しをされたとき、これまで私は鋭い読者であったことが一度としてない