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「人体600万年史」を読んで その壱

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人類と類人猿の祖先は、およそ600万年前に分かれたという。学者によっては100万から200万年ほど前後するが、だいたいその辺りだろうというのが大方の意見のようだ。

その進化の過程において、人間の身体の健康と病はどのように変化し、農業や産業、そして医学が人間にどのように影響を及ぼしてきたのかの概略を本書では扱っていて、なかなか興味深く、勉強になる。

以下は筆者が特におもしろいと感じた部分をざっと取り挙げてみたい。

 生物はすべて最初から健康で長命に生きられるよう適応したわけではない

適応とは相対的に繁殖の成功率を高める特徴を指すので、その結果、健康に長生きでき幸せになることはあるが、それはより多くの子の生存に資する場合に限るのである。

たとえば、人間が肥満になりやすいように進化したのも脂肪が妊娠能力を高めるからで、脂肪が健康によいからではなく、適応の多くは肉体的・精神的幸福を促進するよう進化してはいない。

基本的に子孫を多く持つよう適応しているのであり、そのためであればあるいは個体で見れば不健康にも不幸にもなるよう進化するということだろう。

 

気候の寒冷化による疎開林帯の拡大が二足歩行の契機になった

1000万年前から500万年前までに地球全体がかなり寒冷化し、熱帯雨林が収縮し、疎開林帯が拡大した。進化を後押しするものは「ストレスと窮乏の時期」であり、気候の寒冷化が二足歩行への進化を促進したというのが以下の仮説である。

二足歩行の第一の利点は、果実をかき集めるのに容易であること。次の利点はナックル歩行よりエネルギー消費効率がよかったことである。森の過疎化が進み地上の移動を余儀なくされた祖先は、好物の果実を得るためのこのこと長距離移動を強制されるという選択圧が働いた。*1

この手の議論で直立することの利点として挙げられるのが、道具の制作と使用、高い草むらを見渡せること、川を渡ったり泳げることなどだが、川を渡ったり見渡すことならチンパンジーでもできる。また、二足歩行が泳ぐことに適しているかどうかは単純に疑問だろう。道具の製作と仕様に関しては二足で歩きだしておよそ300万年後の話である。

 

二足歩行への進化は大きな身体的変化を必要としなかった

解剖学的見地から二足歩行はほんの少しの変化であり、まったく無理のないものだった。たとえば腰椎でいえば、人間は5つの腰椎があるが、チンパンジーの約半数が3つ、残り半数は4つあり、まれに5つあるという。同様の自然選択の過程が骨盤の向きや足の裏のこわばりなどに適用されたのだろう。

 

人間は時間とエネルギーをふんだんに注ぎ込む戦略を進化させた少数の種

自然選択は相対的に将来より多くの子孫を持てるように適応した個体を選別するため、生存と繁殖の成功率を上げるようにエネルギーを消費するよう進化を促す。そのため大半の生物は成長にはエネルギーを節約し、できるだけ繁殖に回すという最小限の投資戦略*2を採るが、人間は遅い進度で繁殖して、それに多くの投資をする。

類人猿や象の戦略の利点は、数は少ないが子供の半数以上生き残り、次にその子供が繁殖できるからで、この戦略は資源獲得が予測がつき、乳児死亡率が低いときにだけ有利である。しかし人間の進化は氷河期の間にこの戦略に大きな変更を加えた。

 

成長により多くのエネルギーと時間を費やし、繁殖ペースを加速させた

チンパンジーは成熟するまでに12年から13年かかるが、人間はおよそ18年、5年も長く時間をかける上に、燃費の悪い脳を大きく発達させた。つまりチンパンジーに比べて成長と維持に消費するエネルギーが絶対的に多くなる。

そうなれば当然繁殖の頻度は減るはずだが、しかしそうはならなかった。大方の狩猟採集民は三年毎に出産するのだが、先に産んだ子供が自分で食料を確保できないうちから次の子供を生む。これはチンパンジーの倍の速さになる。

 

大きな脳を持つことは多くの問題を抱える

霊長類の脳の大きさは身体の大きさに比例して絶対的には大きくなるが、相対的には小さくなる傾向にある。チンパンジーの脳の大きさは同じ体重の哺乳類に比べおよそ二倍、人間だと五倍もある。人間の脳の重さは全体重比で2%程度だが、消費するエネルギーは基礎代謝のおよそ20%から25%もを占める非常に大食いな器官だ。

チンパンジーの脳は一日あたり100kcalから120kcalを消費するが、人間は280kcalから420kcalである。差し引きでおよそ240kcalになるが、これは饅頭一個分と同等のカロリーになる。饅頭のない狩猟採集民にすれば、ジャガイモ2.5個分のカロリーに値するが、これだけのエネルギーを賄うのは旧石器時代では負担は小さくない。

他にも脳を持つことの問題はある。常に血液を送らねばならないために、血液量の約15%、およそ1リットル近くの血液を必要とし、そのための特別な配管が必要になる。また、脳震盪などからしっかり守るための保護も必要である。さらに、出産時に産道を通る際に大きな頭が障害となる*3

これだけの負担を考えれば、大きな脳を持たない動物がほとんどであることになんらの不思議はないだろう。

 

 大きな脳を持つことの利点は協力行動

それでも人類の脳が大きく進化し続けたのは、費用に見合うだけの便益があったからに違いないが、直接的な痕跡としては、火を使えるようになったことと、槍の穂先などの複雑な道具を作れるようになったくらいだ。著者の推測によれば、考古学的には見つけられない類の行動こそが最大の利益だったという。すなわち協力する能力の強化である。

ざっと挙げれば、食物や資源の分け合い、出産・育児の介助、情報の共有、他者への思いやり、利己的衝動・行動の抑制などが考えられる。

もう一つの利点として、自然科学の知識の向上である。非力で鈍い狩猟民は周囲の動植物の知識、季節の変化、地形の把握、狩りの手法など広範な知識が必須だった。いずれにせよ上記は仮説の域を出ないが、大きな脳に進化するだけの費用に見合う利益があったはずで、そうでなければ大きな脳は進化しなかったはずである。

 

 脂肪が脳を大きくした信頼性の高いエネルギー供給源

脳の栄養源はブドウ糖だけだが、貯蔵できるブドウ糖は少量であるため、常時補給する必要があり、補給が絶たれれば3・4分で脳死が始まってしまうほど繊細な器官だ。しかも大食いでブドウ糖を一時間におよそ5g、一日にして平均120gもの量を消費する。

これだけの大食いの器官を安全に維持するには、信頼できるエネルギー供給源が必要になってくる。そのための脂肪である。もし大量の脂肪がなければ大きな脳を持つことも維持することもできなかっただろうし、高品質の母乳を十分に出すこともできなかったかもしれないし、さらに狩猟民の持久力も低かっただろう。

脂肪の重要性は乳児においては成人におけるそれよりずっと重い。人間の成人の脳は基礎代謝の約二割のエネルギーを消費するが、乳児の場合だと約六割に達する。ちなみに妊娠期間の最後の三ヶ月間に胎児の脳の質量は、それ以前の三倍になるが、脂肪の量は百倍になるという。いかに脂肪が成長と深く関わっているかの証左であろう。

 

人体600万年史(上):科学が明かす進化・健康・疾病
 

 

*1:チンパンジーが一日に2・3キロしか移動できないのに対し、人間は同量のエネルギーで8キロから12キロは移動できる。

*2:早く成長し、大量の子を生み、若くで死ぬ。この戦略は資源の獲得の予測が困難で、死亡率が高いときに強みがある。

*3:新生児の頭はおよそ、縦125mm、横100mmに対して、産道の一番狭い場所でおよそ、縦113mm、横122mmとギリギリの広さである。