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「空気の研究」を読んで その壱

「空気の研究」の著者、山本七平キリスト教徒であり、大東亜戦争ではルソン島で戦い、そこで終戦を迎える。帰国後イザヤ・ベンダサンの名義で「日本人とユダヤ人」出版したのは氏であることはほぼ間違いないようだ。

氏の主張する日本人の特質を「空気」という言葉で表しそれを分析したことは有名で、これを山本学ともいうそうだ。今回はこの「空気」について二三述べてみたい。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

さて、この「空気」とは如何なるものであるかを氏の主張に沿って概略を説明すれば、曖昧模糊としているが日本人に対する拘束力を有する「精神的な空気」であり、ほぼ絶対的支配力をもつ「判断の基準」であるので反対するものを異端として社会から放逐できるほどの力をもつ「超能力」であるとしている。

我々は論理的判断の基準と空気的判断の基準との二重基準(ダブルスタンダード)をもとに生きており、表面上は論理的判断の基準に従っていても、最終的な決断の基本は空気的判断の基準である。

「空気」による支配の背景には、それが作為的に、あるいは無作為に醸成される過程において、ある対象に感情移入し、それになにかが臨在すると感じること、つまり「臨在感的把握」によって起こり始めるのだ。続けて氏はそれが日常化・無意識化し、そして生活化することで、そうしないと生きている実感がなくなる世界が「日本的世界」であるという。

しかし「空気」は虚構であるから「対立概念で対象を把握すること」で対象を相対化することで絶対化を防ぎ、その「空気」に「水」を差すことでそれを雲散霧消させることができる。この「水」を差す自由、つまり「現実」を発言できる自由がなければ大変なことになる。戦前戦中はこの「水」を差す自由がなかったために大敗北を喫したというわけである。

そして、この「水」には「溶解消化酵素」のような働きがあり、外来の思想や制度を日本的なものへと変遷させ、日本人にとって外来物の異常性を排除し、日本の「通常性」に適した形で残すことで消化吸収してきたという。外来思想である仏教共産主義が、極めて日本的に変質していったことを例に挙げている。

ただし、この「水」とは「現実」であり、「現実」とは日本の「通常性」であり、日本の「通常性」には支点となる固定的な規範のない、つまり神が定めた規範「固定倫理」のない「情況倫理」に支配される危険がある。氏の述べる「情況倫理」とは、「あの情況ではあれが正しいが、この情況ではこれが正しい」というもので、西欧の「固定倫理」と対置させている。「固定倫理」は人間の手に触れられないものであり、悪いことは王でも奴隷でも誰がやっても悪いことで、神という絶対的存在のもとでは皆平等であり、情況で善悪が左右されない絶対的規範である。

しかし「情況倫理」は固定的な支点がないためにそのままでは規範にならないので、「情況倫理」を集約した形の中心的一個人、一集団あるいはその象徴に固定倫理のような支点を求める以外になくなる。それが天皇制であり、これに「水」を差すものは排除される。これこそ日本の最も伝統的考え方であり、それ以外に原点がないため、日本の「通常性」は「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則で安定するというわけである。

 結局のところ「水=通常性」であり、「通常性」は「空気」を醸成する温床になるのである。「水」と「空気」、これらふたつの相互的呪縛から日本人は抜け出せず、それらに「水を差す自由」を行使する「空気」にもまた「水」が差される。なぜなら日本には「空気と水しかないから」だ、ということである。

概略は以上である。次回は氏の考えに対して意見を述べたい。