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「空気の研究」を読んで その弐

概略に関しては前回触れた。氏特有の観点からの日本における「空気」の仕組みの分析には一読の価値はあろうし、現在でも通じる問題提起であろうが、筆者個人としてはここまで高い評価を受けるほどの内容だろうかと疑問におもう。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

 

というのも、この「空気」なるものは日本だけの固有の特質ではなかろうし、氏は戦前から戦後に焦点を絞って自説を展開していくが、範囲が狭すぎるように感じる。であるにもかかわらず自説を日本の伝統にまで拡げるが、これはいささか拡げ過ぎだろう。明治から昭和までの範囲から導出した自論でもって、神代から現代までの二千年以上にも及ぶ歴史に、これを当てはめることには無理がある。氏自身いわゆる「天皇制」に対して明言は避けているが一貫して批判的であり、「天皇制」が「水を差す自由」を阻害する呪縛の根拠にしているが、これは牽強付会であろう。

まず天皇は神でもなければ絶対者でもないことは一般の認識であった。批判も不敬行為と見做されない程度であれば許されていることは、戦前も戦後も違いはない。大正デモクラシーを経験したためだろうが、わりと自由な「空気」が醸成されている。戦中は英語を敵性語とし、使用を禁じたと言われているが、法的に取り締まったわけではなくひとつの社会運動であったので、それほど徹底したものでもなかった。敵性という意味では支那英米同様だが、これを排斥しようという目立った運動はなかった。

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そもそも神と絶対者が同一であるという概念自体が日本的ではない。古事記を読めばわかることだが日本には絶対神は存在しないし、八百万の神は祀られる神でもあるが、自ら祀る神でもあるため*1、全知全能ではないばかりか時に未熟であり成長する神でもあるので、初めから人びとの模範とすべき存在ではなく、規範とすべき正義も真実も持ち合わせていない。

現人神であるということは、神聖不可侵という程度の意味でしかなかったのだろうし、進化論を持ち出して来て「天皇の祖先はサルだ」と米兵に「水」を差されても「だからなんだ」と冷笑混じりに流してしまえるのだろう。そうであるから進化論裁判など日本では起きないし、問題意識にすら登らないのである。したがって、いわゆる「天皇制」そのものが「水を差す自由」を排除するような呪縛になっているとは考え難い。

また、日本の「通常性」には神が定めたまいし「固定倫理」がなく、固定的支点がないために、ある個人ないし集団の「情況倫理」を支点に固定的規範を定めたというのも議論の余地がある。絶対者ではない人の身の天皇が日本の「固定倫理」に定められたり、それを定められるような善悪の基準などは持っていない。天皇であっても、貴族であっても、あくまでも古来からの慣習や宗教などの伝統に従っており、そしてそこに外来の儒教仏教が加わって日本の規範が形成されている。天皇や貴族が力を失った鎌倉時代以降の規範は「道理」に重きを置いている。一神教などなくとも「固定倫理」を拵えなくとも日本には固定的規範は存在していたのである。それに日本人は善・悪が物事の判断の基準ではなく、どちらかといえば、清・穢が判断の基準であるようにおもう。

日本の規範に関しては小堀桂一郎氏が興味深い考察をされている。

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*1:祀られるのみの神は名前すら持たないが、その神を祀り、他からも祀られる神は祀られるのみの神より尊貴で重要であるという和辻哲郎の説。蛇足だが、日本において至高の存在は不確定性であるともいえる。