王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「戦争学原論」を読んで その壱

f:id:bambaWEST:20170728154913p:plain

当ブログでは何度か戦争について取り上げてきたが、大半の人間にとって受け入れ難いものであったとおもう。つまり戦争には肯定的側面があるということである。興味があれば過去記事を参照していただきたい。

今回とりあげる「戦争学原論」の著者である石津朋之氏は、「戦争は人類が営む大きな社会的な活動である。」と持論を述べ、そこから改めて戦争について考え直すきっかけと思案する際の材料を与えてくれる。

また、日本において平和学は活発に議論されているが、戦争をタブー視するあまり、戦争の学問的研究やその教育水準も低い。海外では活発な議論がなされている戦争に関する学術的、学際的な学問領域が不在であり、その現状を少しでも改善し、「戦争学」を確立したいと考えている。

戦争をただただ悲惨なものとして忌避するのでなく、戦争を様々な観点から眺めることは重要である。予め断っておくが、戦争に勝利するための方法を論じた本ではない。では見ていこう。

 戦争は政治の道具であり、敵との政治的交渉の継続にすぎない

現在でもよく耳にする「戦争とは政治的交渉の一つ」という成句はクラウゼヴィッツが彼の著作である「戦争論」で述べたことだ。この思想は現在でも引き継がれ、今日の大方の人が抱く一般的な戦争観はこれを基礎としている。

また、「絶対戦争」という戦争の究極目的は敵戦力の殲滅であるとの概念を導出し、それに現実的修正が加わったものを「制限戦争」とする二つの戦争型を考えだした。彼は戦争の本質を「拡大された決闘」と捉え、ゆえに敵殲滅が究極目的であるため、戦争が手段であることを忘れて目的そのものになってしまうのはこのためであるという。

なお、クラウゼヴィッツに影響を受けた軍事史の草分け的存在にハンス・デルブリュックがいる。

 

戦争は政治的事象ではなく、文化的事象

戦争を政治という狭く合理的な枠組みのなかで捉えるのではなく、もっと広い文化的枠組みのなかでようやく理解できると主張したのが歴史家ジョン・キーガンである。彼はクラウゼヴィッツを批判して、戦争の生起は感情や本能からくるもので、国益などの合理的目的が前提ではないとした。

軍事学者マーチン・ファン・クレフェルトは戦争は危険や歓喜と隣り合わせであり、戦争が政治の延長ではなく、スポーツの延長としての側面があるという。事実、国際スポーツを戦争の代わりにならないかとの議論はいまだに根強い。スポーツの勝利者に与えられる最大の報酬は名誉である。これは戦争にも共通するところだろう。

戦争に勝利することで経済的政治的利益の側面は確かにあるが、これは現世に生きる人びとにおいて最大限に享受できるものだ。しかし名誉は後世の人びとにも現世同様に享受できる最大の喜びであることを考えれば、名誉こそが戦争目的として十分な動機となりうる。

また、sportsの語源が気晴らしや遊びを含意するものであるから、スポーツそのものが合理的動機を持たないか、超えたものであるともいえる。それを視野に置いて戦争を考えれば、戦争そのものに合理的目的がなくとも十分な動機になりえるし、戦争自体がスポーツ同様、人びとを魅了する力を持っている。実際世界中の人間が競い合ったり戦い合うことが非常に好きな生きものである。

 

戦争と祭りの創造的破壊性

クレフェルトは戦争で死ぬ覚悟のある兵士にとって、死の恐怖や生への執着を克服する過程において、戦争を重んじる伝統的文化が重要な役割を果たすという。戦争文化は死の恐怖を克服するために産出されたものであり、兵士の精神の深奥に影響するものである。

社会学ロジェ・カイヨワは戦争と祭りの類似性を指摘している。

  1. 戦争と平和、祭りと平常とは同周期であり、集中と発散、騒乱と労苦、浪費と倹約が交互に表れる
  2. 道徳的規律の根源的逆転が伴う
  3. 平時の生活様式から激しく人びとを断絶する

非日常のなかで抑圧されていた本能が解放されるのが、戦争であり、祭りであるという。日常とは慣習のなか利己主義が蔓延する怠惰な停滞だが、戦争と祭りは虚偽を精算するエネルギーの本源であるのだ。つまり、戦争と祭りは多大な犠牲と混乱を伴うが、それらによって旧秩序を除き、新秩序を打ち立て、新時代を拓くものとしている。

戦争や祭りのあとにはまた平常が戻ってくる。しかしそれは次なる爆発に備えるものでもある。戦争と祭りは聖なるものとされるがゆえに理性を凌ぐものなのだ。

さて、ここまで見てきて思うことは、戦争と祭りに類似するものであるなら、政治もまた然りである。政治はそもそも祭り事であり、キーガンが戦争を政治という狭義の枠組みのなかで捉えることを批判したが、元来政治が祭りそのものであることを思えば、広い意味では戦争を政治の延長と捉えることは必ずしも間違いとは言い切れない。

しかし政治を合理的理性的に運用すべきものであるとの考えに捕らわれているのであれば、キーガンが述べたように狭い枠組みであり、戦争をも合理的側面からでしか見ることはできない。そしてスポーツも古代ギリシャでは大神ゼウスに捧げるオリュンピア大祭であり、やはりこれも祭りとは切っても切れない関係だ。

であれば、政治、戦争、そしてスポーツはすべて祭りに集約されるものであり、それは宗教性と言い換えてもいいだろう。以前にも触れたように、宗教は理性に頼って合理的理解すべきものでなく、まさに文化という曖昧な枠組みでしか捉えることができない類のものである。物事を合理的に把握することを過信する現代において、戦争に関して真の理解に達することは困難であるが、神秘の領域に深く関わる宗教、および祭りに対して、人間の知能がどこまで真理に迫れるかは甚だ疑問である。

 

戦争学原論 (筑摩選書)

戦争学原論 (筑摩選書)

 

 

bambawest.hatenablog.com

 

 

bambawest.hatenablog.com

 

 

bambawest.hatenablog.com

 

 

bambawest.hatenablog.com