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「戦争学原論」を読んで その弐

 

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前回と同じく石津朋之氏の「戦争学原論」についてである。

すでに前回で戦争とは合理的な政治的事象ではなく、文化的事象であることに触れた。この考えは筆者の従来の考えを補強するもので、我が意を強くするものであった。情けない話であるが、筆者は戦争には肯定的側面があるという考えをブログ以外で他人に話したことは、極々親しい者以外に一度としてない。

保守派の活動を通しての知人は少なくないが、その誰もが戦争に対しては極力避けるべきものとして認識しているからである。なにも積極的に戦争せよと話したいのではない。戦争を避けるにせよ、始めるにせよ、それを多角的に眺める重要性を議論したいのだが、なかなか理解を得ることは難しいだろうと躊躇しているのである。

ともあれ、さっそく本題に入りたいのだが、実は前回でほとんど書きたいことは書き尽くした感があるので、今回は気になった点を列挙するに留めたい。

国民国家は内戦を制圧したが、国家観戦争は容認した

主権国家が歴史に登場することで、国内紛争、いわゆる内戦は抑制されるようになったが、これは国家が戦争し始めた結果である。国家がなければ戦争もないという議論があるが、逆に国家がなければ平和も存在しないのである。トマス・ホッブズが述べたような国家がなければ「万人による万人の闘争」状態になるかどうかは疑問だが、少なくとも主権国家は内には警察で、外には軍隊で平和を確保しようとしたのだ。

 トゥキュディデスの「三要素」

クラウゼヴィッツが唱えた戦争の三位一体とは、戦争全体を支配する三つの要素を「国民」「軍隊」「政治」と定めた。これとは別にトゥキュディデスは戦争の原因を「利益」「恐怖」「名誉」の三つに求めた。三要素に関して詳しくは本書に当たって頂きたい。クレフェルトは政治的利益よりも「正義」を重視し、また、「宗教」が戦争に深く関わっていたことを指摘している。

 戦争の究極的目的が経済的利益であれば、すでに戦争は根絶されていた

国際政治学マイケル・マンデルバウムは「大規模な戦争は時代遅れ」だという。大規模な戦争は人命や資産の観点から、見込まれる利益に対して費用があまりにも膨張しているからだというのが彼の主張である。つまり割に合わないということだが、この主張はマンデルバウム以外の多くの専門家が同様なことを述べている。しかし、彼等の主張の通りであれば、すでに戦争は根絶されていたはずである。

 平和の対概念は戦争ではなく「暴力」

歴史家ヨハン・ガルトゥングの主張する平和とは暴力の不在を指し、それを目指す過程自体もそれに含まれる。暴力とは簡単にいえば、人が持つ潜在的実現の可能性を阻害することを指し、暴力を行使する行為者を特定できる場合は「直接的暴力」といい、特定できない場合、例えば差別や不平等社会などを「構造的暴力」という。そして直接的暴力の克服を「消極的平和」とし、構造的暴力の克服を「積極的平和」と定めた。

ガルトゥングの平和論は戦争の防止だけに留まらず、社会構造の改革にまで及ぶのが特徴である。さらに彼は第三の暴力として文化的暴力を挙げ、多様な文化のなかには直接的・構造的暴力を正当化する部分が含まれることを指摘し、これの克服を「文化的平和」と述べる。これらの暴力を克服した理想社会では警察は不要になり権力が極小化した状態が平和であり、ただ国軍だけが必要になるのだという。

ガルトゥングの平和論は平和学が扱う領域を拡大したが、これに対し「平和学はあくまでも戦争をめぐる問題の研究に集中すべきであり、」「却って戦争という最重要な問題を曖昧にする」と批判されている。

すこし私見をいえば、権力や文化などの社会的構造は時に人びとを縛る枷でもあるが、同時に秩序を守るものでもある。権力を極小化し、文化や社会構造を除いてしまえばどうなるか。彼らのいう「平和」によって大きな混乱が齎されてもまったく不思議はない。

 

戦争学原論 (筑摩選書)

戦争学原論 (筑摩選書)