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「インテリジェンス入門」を読んで その弐

前回はドイツとフランスの情報活動に触れた。今回はイギリスの情報活動に関して少し触れてみたい。情報活動一つとってみても、ずいぶん文化の違いが表れてくるものである。

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インテリジェンス入門

インテリジェンス入門

 

 

スパイ嫌いのイギリス

007などの映画の影響だろうが、イギリスといえば情報活動の先進的印象があるが、意外にも19世紀を通してイギリスは情報活動やスパイを嫌っていた。政府は世論を恐れスパイを使わず、しかもそれを誇りにおもっていたのである。しかし1899年、ボーア人(ブール人とも、オランダ系アフリカ移民)との南アフリカの植民地支配を巡って起こった第二次ボーア戦争でイギリスは苦戦を強いられ、それまでの大英帝国的国際戦略を見直さざるを得なくなる。

専門性を軽視するアマチュアリズム

スポーツの理念が外交にまで及ぶことの是非については議論があろうが、それはともかく、専門家の意見を等閑視する姿勢が情報活動一般に対しての軽視を招く原因にもなっていた。それが災いし、情報分析活動は行われなかった。通信情報には特に無知であったため、フランスが手紙を開封し検閲を行っていたことが、イギリス人紳士には到底理解できなかったようである。

イギリス陸軍の情報活動は図書館の中

ナポレオン戦争以降40年間の平和の中で、外務省同様に陸軍でも軍事に関わる情報の収集活動はすっかり低調になり、地図さえろくに作られなくなる。情報の必要性にいち早く気付いたのは本国の陸軍でなく植民地軍だった。1854年クリミア戦争では周辺地域の地図さえなく、攻撃命令が来てもなにを攻撃すればわからないというほどお粗末な状態だった。それでようやく地理統計課が創設され、これがイギリス陸軍の最初の情報機関となる。

その後地理統計課は情報課から情報部へと徐々に改組発展していくが、情報に対する熱意は相変わらず低いままで、秘密情報を扱うこともほとんどなかった。スパイ活動はプロ意識の低い緊張感の欠けたもので、ここでもアマチュアリズムの弊害があった。情報部の主な情報源は機密情報よりも公開情報、つまり新聞や雑誌などであり、それらは図書館の中にあった。集められた書籍は相当な量に達し、そして年を追うごとに増加していった。公開情報重視である一連の活動は主に外務省や植民地省にとって有益なものだった。

海軍情報活動もやはり低調

イギリス海軍の情報に対する認識は陸軍に比べてもさらに低く、意識がようやく向きだすのは1877年の露土戦争からであった。それから五年後に海軍省は対外情報委員会を設け、その目的は外国の海軍、沿岸防衛、海事一般の情報の収集であった。が、やはり有用とは言い難い状態が続いた。

1899年から始まる南アフリカでのボーア戦争でイギリスは苦しい勝利を掴んだのだが、当時の陸軍の情報機関は担当する士官が二人とパートタイムの助手が一人、そして事務員が一人だけの限られた人員しか配置されていなかった。が、それでも正確な報告書を提出していた。イギリスは苦戦した原因とその改善を検討した結果、問題は情報の運用方法にあったことが明らかになる。当時のイギリスは列強のなかで唯一参謀本部を持たない国だったため、情報を運用する組織が欠けていたのである。

それを受けてアーサー・バルフォア首相は帝国防衛委員会(CID)を設立した。そこでは超党派の議員たち、そして陸海軍も参加し、国家戦略に関する自由な議論が交わされた。これによって、どこの国でもそうだが、仲の悪かった陸軍と海軍の連絡が密になったおかげで、防衛戦略の基礎を築く糸口となった。