王様の耳は驢馬の耳

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「戦争文化論」を読んで その一

理論的に考えれば、戦争は目的を達成する一つの手段である。野蛮ではあるが、ある集団の利益を図ることを意図して、その集団と対立する人々を殺し、傷つけ、あるいは他の手段で無力化する合理的な活動である。

上の一節から始まる「戦争文化論」は歴史学者軍事学者のマーチン・ファン・クレフェルト教授が発表したものである。上記の思想は「戦争は外交の延長である」というクラウゼヴィッツの主張の範疇にあり、戦争は合理的な利益に奉仕するものであるという今日でも一般的な戦争観といえる。しかしクレフェルトは言う。

 だが、この考えは見当違いもはなはだしい。

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戦争文化に注目し、慎重に理解すべき

すでに拒否感を抱く人が大半かもしれない。戦争と文化は対極的で相容れないと主張する人もいるが、それが真実であったとしても、戦争文化が注目に値しないということにはならないとクレフェルトは主張する。

偉大になった帝国や民族とその思想や宗教は「ぶち壊す仕事」に長け、大量の大砲で他国を滅ぼしている。逆に武力でもって運命に逆らわない文明は滅びるだろうし、仮にあったとしてもごく少数にとどまる。戦争とその文化は人類史において重要な要素であり、今後も変わらないだろう。であれば、人間生活の一貫として理解することが大切で、そのためには人間生活の他の要素と同様に、慎重かつ共感を持って研究すべきであると述べる。

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「無用な」戦争文化がなければ軍隊ではない

クレフェルトによると、戦争それ自体が強烈な魅力を発揮しており、戦うこと自体が喜びの源泉になることもあるというのである。彼はこの魅力と喜びから戦争を取り巻く文化が成長するのだが、実際には戦争文化はこの魅力に埋没している文化であり、他の文化と同様に、戦争に関わる文化の大部分が「無用な」演技や装飾や気取った言動なのであるという。

ここで言う「無用な」文化とは非実用的な鎧の形状や装飾から今日の「迷彩」服や「タイガースーツ」、古代エジプトの兵棋、現代の戦争ゲーム、軍事演習、戦略、さらには旧約聖書申命記、今日の国際法の小項目。そして戦士の価値観、伝統、儀式、宣戦布告と正式な終戦の方法や記念なども含まれる。

その「無用な」戦争文化がなぜ重要なのか。それには2つ理由があるという。一つはどんな文化でも実用性とは没交渉で軽視されがちだが、それがなければ戦争はたんに暴力の限りを尽くすものになってしまうということである。無目的で無分別な混沌に支配された軍隊は、規律も自制もを失い、怒りに任せて殺戮に走る。戦争と殺戮を区別できない集団はよく組織化され統制されて、さらに煩雑な文化的装具を備えた軍隊には匹敵し得ない。

もう一つは危険を避けたい、逃れたいという自然な欲求を克服する過程において、戦争文化が重要な鍵になる。軍隊が目的を達成するのにあらゆるものを備えていたとしても、生存本能に逆らって命をかける覚悟がなければ使いものにならない。ゆえに戦士が死を喜んで受け入れるような文化、具体的には豊かな装具、勇壮な音楽、厳かな儀式が求められ、集団あるいは社会が戦士を賛称し、懸賞し、戦死者を追悼することなどで支えることが不可欠である。そうして戦士はこれらを肌で感じ魂にまで入り込むことによって、臆することなく果敢に死に立ち向かうことができるのであり、戦争文化は主としてこのために生まれ、歴史とともに発展し現代でもその本質は変わらないのである。

戦争文化論 上

戦争文化論 上