王様の耳は驢馬の耳

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「戦争文化論」を読んで その三

前回も触れたが、戦争文化が他の文化同様に実用性に欠けた、そのほとんどが「無用の」虚飾であるというのがクレフェルトの主張するところである。では、もしその戦争文化が何らかの理由で十分に機能しなかったらばどうなるのか。著者は四つの結果が考えられるという。

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野蛮な集団

長期にわたって行動をともにする団結し訓練された集団は独自の文化を形成し、形成された文化がある集団と他の集団とを区別する。所属する集団の文化を構成員は誇りに思うもので、むしろ集団を結束させ存続させるものが文化であるともいえる。その文化を持たない集団は規律も伝統もなく、まとまりを欠くために統制がとれない野蛮な集団であり、ときに運良く勝ちを拾うこともあるが、最後には敗北する。

無法な集団はしばしば敵と味方の区別がつかなくなり見境なく攻撃し、さらに敵を作って誰からも信用されず、誰も信用できなくなる。この集団のできることは破壊することだけであり、しかし破壊し廃墟と化した土地では彼らの生活を支えられないため自ら首を絞める結果を招く。敵から奪った資源も浪費を重ねる。実際の戦時にはこのような連中は必ず存在し、たいていは役立たずであり、誰にとっても危険な存在である。

魂のない機械

野蛮な集団とは対象的に規律を重んじはするが実質よりも形式を尊ぶようになると、実戦と訓練の乖離が大きくなり、戦場で役に立たなくなる場合がある。例えばプロイセンフリードリヒ2世 (プロイセン王)が築いた戦争文化を後継者たちは表面的にしか理解せずその一部だけに拘り、訓練にだけ集中してしまった。敵前では役に立たない時代遅れになった密集隊形の行進の訓練に明け暮れ、イエナ・アウエルシュタットの戦いで大敗北を喫することになる。戦争文化が軍隊の能力を高めるはずのものであるのに、むしろ弱体化させてしまった例である。

軍隊が魂のない機械になる他の原因として、戦争文化を捨てるよう強制された場合である。その例としてクレフェルトは再びドイツをとり上げる。第二次世界大戦以降、それまでの歴史上もっとも発達していた戦争文化を、ドイツはナチス時代の「反省」から放棄することを強いられてきた。その結果、魂のない軍隊になってしまっている。連邦国防軍の軍人、なかでも将校は自分たちを国のために暴力を振るうことを専門ににている軍服を着た国家公務員と見做している。ドイツを日本、連邦国防軍自衛隊に置き換えても通じる話ではないか。

気概を失くした男たち

戦争文化を持たない、あるいは軽蔑し、挑発されても立って身を守る気概のない男たちのことである。平和なうちは戦争から目をそむけ、それが始まってしまうと戦わずに隠れるか、逃げるか、神に祈る。古今東西、臆病な兵士はどこにでもいるし、泰平を長く謳歌した社会に特に多い。気概をなくした人間の代表的な例はユダヤ人である。「ディアスポラ」の後はすっかりダビデ王国時代の気概を失ってしまう。

ある民族が異国で暮せば、寛大に扱われるはずはない。生き抜くことに精一杯のユダヤ人は戦士としての気概を持つより、逃げ隠れしながら信仰を捨てる以外のどんな犠牲を払ってでも生き延びようとして無抵抗を続けた。やがてユダヤ人はどうしようもない臆病者だという固定観念が定着してしまった。実際に固定観念に囚われていたのは反ユダヤ主義者ユダヤ人自身かは判然としないが、ユダヤ人自身もそれを受け入れるほどになってしまっていた。

近代に入ってシオニズムが生まれ、実際にその運動が始まると、戦わずにイスラエルに帰還することは不可能だとわかる。そこでユダヤ人に対する固定観念の払拭と好戦的な伝統が求められたが、すべて一から構築する必要に迫られた。当時イスラエル軍人の多くが若い頃イギリス軍で経験を積んでいたので、そこからいくつかの戦争文化を採り入れ現在のイスラエル軍がある。

フェミニズム

戦争にとって女性は、絶対に欠かすことのできない存在であることは、歴史的にも証明されている。それは戦場で活躍したということでなく、女性が女性らしく振る舞う限りにおいて女性が兵士に与える影響は計り知れない。男が戦争文化を形成する重要な理由に、女性に自分たちの武威を印象づけたい、平たく言えば、強そうに見せたいということがある。イギリスのフェミニストヴァージニア・ウルフはこう語る。

これまで何世紀もの間、女性たちは、男性の姿を実物の二倍にして映し出すこころよい魔力を備えた鏡として役立ってきました。 

 その魔力がなかったならば、おそらく世界は未だに未開で、あらゆる戦功も生まれなかっただろう。鏡はすべての荒々しい勇ましい行動には絶対に必要なものだと言った。戦争文化とそれを体現する兵士に対する女性の支持は、戦争文化の存在意義を高めているのである。

とはいえ多くのフェミニストは戦争文化は不届きな男性が作ったものであり、女性には共感できないものであるから、女性は戦争に巻き込まれないよう抵抗すべきであるという。戦争文化の存在意義に女性からの支持が得られなければ、それを維持することは極めて困難になる。女性が男性に比べて戦争を楽しめず、その理解に苦しむことも不支持に繋がっているのかもしれない。実際に戦場に出た女性たちが残した本からは、戦いが楽しいという言葉をクレフェルトは見つけられなかったという。ともあれ女性が戦争文化を嫌ってそっぽを向いてしまうと、すっかり男性はやる気を削がれてしまう。さらに嘲笑を浴びせるようになると、戦争文化の衰退は免れないだろう。

戦争文化を衰退させる道はもう一つある。それは女性が軍に入隊することである。両性の身体的差異を考慮すれば、両方を対等に扱いながら訓練課程を作ることは困難である。性別に分けて訓練を施すことは可能だが、実戦に対して訓練はどれほど過酷であっても所詮訓練に過ぎず、戦争で役に立たない訓練は無駄な損失である。他にも訓練における男女間の不公平や、集団行動においては一番弱い者の能力に合わせねばならないことなどが挙げられる。命がけの戦場ではどれも深刻な障害になるだろう。

軍隊に圧力をかけ女性を大量に入隊させ、男性が占めていた要職に女性を就かせることができれば、戦争文化の尊厳は明らかに低下するだろう。フェミニズムが力を得ると戦争文化は衰退し、勢いを得たフェミニズムはさらに戦争文化を追い込むという過程は繰り返される。

 

 

戦争文化論 上

戦争文化論 上

 

 

 

戦争文化論 下

戦争文化論 下