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「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その一

戦争の話題続きで恐縮だが、筆者は石津朋之氏の著作を何冊か読み、その中で取り上げられたいくつかの気になった著書を読んでいるためである。以前の記事にも書いたが、世間の戦争に対する悲惨だという否定的側面以外の肯定的側面があるのではないかと筆者は考えていた。これに対して誰もが拒否感と嫌悪感を露わにし、一度も賛同を得たことがない。しかし筆者の考えに自信を与えてくれたのが石津氏であった。

今回から取り上げるロジェ・カイヨワ著の『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』は石津氏の著書の中でも扱われたものだ。戦争とは如何なるものであるかを歴史的に解説した良書であろう。

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戦争は複雑な一種の社会現象であり、社会の形態に対応したもの

はじめにカイヨワは戦争の定義についてこう述べる。

戦争は集団的、意図的かつ組織的な一つの闘争である。

戦争を構成するものは暴力であるが、どんな暴力でも戦争と呼んでいいわけではなく。個々人のばらばらな戦闘がいくら集まっても戦争とは言わないからである。そして戦争の本質は、破壊のための組織的な企てであることにも留意すべきだとしている。また、戦争について多くの人々が思いおもいに定義を下しているが、あまりに複雑な現象であるために、その実態を汲み尽くすことはできないというのはもっともだろう。

戦争を行う方法というものは、いつどこで行われようとその時の文明の状態と密接な関係があり、普遍的な戦争の持つ諸々の価値と力とを計り得るような一つの基準を求めることは無駄だというカイヨワの指摘は重要である。

よく聞く議論に戦争は文明と対極のものだというのがあるが、これも正確ではないという。なぜなら戦争は文明に付きまとい、文明とともに成長するからだとする。また、戦争が文明であり、戦争が文明を生むというのも間違っているという。なぜなら文明は平和の産物だからである。が、戦争が文明を表出するもので、実際には戦争は社会のある一つの形態であるとする。つまり諸生産力の全て、あるいは一部を破壊的仕事、あるいは防衛的仕事に振り向けるという形態を指すものであり、社会の形態に対応しその主要な特性を映し出すものなのだということである。

戦争が社会の形態に対応したものであり、その特性を表す一つの社会現象であるという視点から、カイヨワは戦争を四つの形態に区別しているが、ここでは階層化された封建社会で貴族階級の専門家した戦争を取り上げたい。

貴族の戦争は遊びの延長

戦史を紐解けば戦争は、狩猟と武芸試合、あるいは殺戮とスポーツとの間で変遷しており、戦いが特権階級に独占されている社会においては決闘的な傾向が顕著になるという。このような戦争では厳密なルールに則り、無防備な敵への攻撃、予告なしの攻撃などを行うことがないだけでなく、敵を殺すことさえ目的ではない。相手が「参った」と言えばそれで終わるのだという。

原始的な戦争は待ち伏せによる不意打ちが主要な戦法であったが、彼らはこの有利な戦法を自ら放棄している。宣戦を布告し、均等な機会、同等の武備を持って遭遇できるような場所に招致する。一般的に戦争で死ぬ者は多くなく、一人も死なずに終わったこともあるのだという。マキャヴェリによると総勢二万の大軍が四時間も戦いながら、戦死者は一人だけで、しかも死因は落馬だったそうだ。貴族たちは傭兵を使うが彼らに戦意はなく、一度会敵すれば早々に逃げ出す有様であった。

戦争は時に多くの民衆を殺戮したが、戦闘員の犠牲は多くなく、貴族同士で互いに相手を殺すことは控えていたようだ。それよりも相手を捉えて身代金を受け取り、傭兵を買う資金に当てることが理想だった。仕来りや道徳を重んじることが武勇の誉れであったが、これらの規律に従いながら勇敢に戦うことは両立が困難である。こういった制約された戦争の中では、いわばMVPになることが目的になる。

戦争は遊戯の延長線上にあるものとなり、遊戯の基本的要素であるところの場の限定、ルール、対抗関係、といった要素がはっきり現れる。つきつめていえば、戦争と遊戯とを区別するものは、ただ死のみである。 

とはいえ上でも触れたが、戦士は滅多になかった。戦闘自体も血みどろなものではなく雑然としたもので、一方は相手が怯めば勝利と見做し、他方は敗北を認めて退却したという。貴族たちは相争う利益や対象が対して重要ではないことを見失わず、戦争の規模もほぼ正確に戦争の重要性に規定され、戦う執念、熱狂、常軌を逸した行為は少なかったという。

しかしこういった風潮が、戦争に関わらなかった民衆に対する残虐な行為をまったく妨げるものではなく、貴族たちは民衆を蔑視していたため、占領地に入った兵士のなすがままに任せておいた。基本的に敵は壊滅させるものではなく罰するものであり、家や収穫を焼けばそれでよかったのだという。貴族の戦争の諸規則は同じ水準と同じ文化に属する者同士でのみ意味を持っており、別の習慣で生きる民衆は野蛮人と見做していたのである。異なる階級の同じ国民よりも同じ階級の敵に対してむしろ連帯感を抱いていたようである。

未開の時代の人びとが行う戦争には二つの型があるという。一つは同じ部族での異なる氏族との規律ある遊戯に近い戦争で、もう一つは異民族に対する容赦のない殲滅戦である。時代が下るとこれらの異民族は辺境の部隊に組み入れられ、それによって戦争の性質も徐々に過酷なものへと変化していき、殺戮は頻繁に行われるようになる。そして力の倫理がこれまでの規律に取って代わったという。

カイヨワは貴族社会の戦争規則は、常に消失寸前の状態にあり、これを存続させていた諸要素がなくなれば存在し得ないものだという。その諸要素とは封土所有者の独立性、貴族同士の連帯性、名誉感の偏重、傭兵たちの貪欲さなどである。金で雇われた傭兵集団にとって戦争は一つの請負仕事に過ぎず、憎悪も戦意もなく戦場へ向かうため必死に戦うことはない。金の問題でいえば、後に常備軍を持つようになるが、訓練された軍隊の保有には金がかかるため自ずから兵数は限られる。戦争中に兵数を増強することはほぼ不可能だし、常備軍は一種の堅実な資産であるから一つの戦争で危険に曝すわけにはいかないため、戦闘は慎重で消極的なものになるというわけである。それに対しクラウゼヴィッツはこう述べたという。

当時、戦争はまったくの遊戯であった。そして、そこでカードを混ぜていたのは、時と偶然であった。

戦争論 〈新装版〉: われわれの内にひそむ女神ベローナ (りぶらりあ選書)

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