王様の耳は驢馬の耳

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「遊びと人間」を読んで その一

「遊びと人間」は前回まで取りあげた「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」と同じ著者であるロジェ・カイヨワの作品である。遊びに関してはヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、カイヨワもホイジンガを著書のなかで高く評価している。しかしホイジンガの遊びの定義には満足しておらず、作中でカイヨワは独自に遊びを定義し直している。

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遊びとは非生産的な活動

従って、要するに、形態という角度からすれば、遊びとは、フィクションである、日常生活の枠外にある、と知りながら、遊ぶ人を全面的に捕らえ得る自由な活動、いかなる物質的利害も、いかなる効用も持たず、明確に限定された時空の中で完了し、与えられたルールに従って整然と進行し、好んで自己を神秘で取り囲んだり、仮装によって日常世界に対する自己の無縁を強調したりする集団関係を人生の中に出現させる活動である。*1

上はホイジンガによる遊びの定義であるが、これに対して一定の評価をしつつもカイヨワは暗黙の協働関係を遊びの定義の中に入れることはできないという。遊びとは見せびらかさないまでも、見世物的なところがあるからだ。秘密、神秘、仮装などは遊びに結びつくかもしれないが、遊びには秘密や神秘の要素を奪い去り、いわば秘密を消費するものがあり、虚構や気晴らしの役割が勝っていなくてはならないのである。神秘や秘密が敬われ、偽装が変身や憑依の発端や兆候であってもいけないのである。

さらにカイヨワは遊びがいかなる物質的利害を伴わない活動であれば、賭けや偶然の遊びが除外されてしまうという。金銭の遊びでもある偶然の遊びがまったく取り扱われていないと批判する。遊びのいくつかは極端な利益や損失をもたらすものだが、それは遊びが純粋に非生産的という性格から外れるものではなく、利得の合計が他のプレイヤーの損失の合計を越えることはないのである。

事実、いかなる富も、いかなる作品も生み出さないのが、遊びというものの特徴である。

この点において労働や芸術とは異なり、さらに遊びは金、時間、エネルギー、才能を消費する機会でもある。

遊びとは自由な活動

ホイジンガの定義で、遊びは自由で任意の活動であり、喜びと楽しみの源であるという行に対してはカイヨワは賛意を示している。強制されれば遊びでなくなり、急いで開放されたい拘束や苦役になってしまうだろう。自由な時間に自発的に、快楽のために夢中になり、現実生活から逃避する。そして、特に、飽きたときには立ち去る自由がなければならないのが遊びである。

遊びとは分離した活動

さらに遊びは本質的に生活から切り離され区別された活動であり、一般に時間と空間の厳密な境界内部で完了する活動である。空間については例えば将棋盤、競技場、リング、舞台などがそれであり、それより外のことはまったく考慮されない。この空間から外れてしまった場合、事故であろうと故意であろうとにかかわらず失格や罰が課せられる。時間に関しても同様で、合図で始まり、合図で終わる。場合によっては延長する。遊びの領域は特別で、閉ざされ、守られた、純粋な空間である。

遊びとはルールのある活動

この限定された時空の中では日常生活の規範に代わって、遊びのルールが通用する。これに異議申し立ては許されない。遊び自体の外に意味はなく、そうであるからこそ現にあるルールが別の形であることになんの理由もない。ゆえにルールは命令的かつ絶対的なものになるのである。

遊びとは不確定の活動

遊びは自由で不確実な活動であり、結果は最後までわからない。プレイヤーにとって成り行きが予測できて、間違いや驚きの可能性もなく、結果がわかっていたとすれば遊びにはならない。遊びは予測ができない状況の更新が常に求められ、ルールの範囲内で自由な発見や発明の必要によって成立するものである。プレイヤーの許された自由の範囲、つまり余裕こそが遊びの本質であり、喜びの一部である。

遊びとは虚構的活動

ルールのない遊びも多い。例えばごっこ遊びがそれである。まるで自分が別の人物、別のものであるかのように振る舞うことが主な楽しみである遊びには、一定の厳格なルールは存在しない。この場合虚構が、要は「あたかも○○のごとく」という感情がルールに代わり、ルールと同様の機能を果たす。ルールはそれ自体が虚構を作り出す。将棋、野球、ポーカーなどのプレイヤーはルールに従うこと自体で現実生活から切り離され、それがゆえに夢中になれるのである。現実生活にはこれらの遊びが忠実に再現しようとするような活動はなにもないからだ。

これに対しごっこ遊びのような生活を模倣する遊びの場合は、プレイヤーは現実生活にないルールを発明することはおろか、それに従うことはできない。この種の遊びには単なる物真似に過ぎないという意識が伴い、その意識がルールの代わりとなって現実生活から切り離す働きをするのである。したがって遊びはルールのある虚構的なものなのではなく、ルールがあるか、あるいは虚構的か、そのどちらかなのだ。

まとめると以下である。

  1. 自由な活動。遊ぶ人がそれを強制されれば、たちまち遊びは魅力的で楽しいという性格を失ってしまう。
  2. 分離した活動。あらかじめ定められた厳密な時間および空間の範囲内に限定されている。
  3. 不確定の活動。発明の必要の範囲内で、どうしても、或る程度の自由が遊ぶ人のイニシアティヴに委ねられるから、あらかじめ成り行きがわかっていたり、結果が得られたりすることはない。
  4. 非生産的な活動。財貨も、富も、いかなる種類の新しい要素も作り出さない。そして、遊ぶ人々のサークルの内部での所有権の移動を別にすれば、ゲーム開始の時と同じ状況に帰着する。
  5. ルールのある活動。通常の法律を停止し、その代わりに、それだけが通用する新しい法律を一時的に立てる約束に従う。
  6. 虚構的活動。現実生活と対立する第二の現実、あるいは、全く非現実という特有の意識を伴う。

 

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

 

 

*1:簡単な定義もある。すなわち「遊びとは、一定の時空の限界内で完了し、自由に同意された、しかし、完全に命令的な規則に従い、それ自体のうちに目的を持ち、緊張と喜びの感情、日常生活とは違うという意識を伴う自発的な行動あるいは活動である。」