王様の耳は驢馬の耳

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「遊びと人間」を読んで その二

ロジェ・カイヨワによれば、遊びの研究といえば玩具の歴史を指し、一般に遊びは単純で無意味な子供の気晴らしと長い間考えられてきた。 そのため遊びに文化的価値を見出すような研究はされてこなかったのである。

今回は遊びを巡って二つの思想を見ていきたい。すなわち、文化が先か、遊びが先か、である。

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遊びとは文化の堕落した形態

ホイジンガ以前の遊びに対する考えは文化が先にあり、それが遊びになったというものが主流であった。遊びと玩具との起源についての研究の結果、玩具は道具に過ぎず、遊びは大人がより良いものを発見したとき、通用しなくなったものを子供に譲り渡しただけの、愉快だが無意味な行動でしかないというものだった。

例えば弓、盾、吹矢、パチンコなどが武器として通用しなくなったものが玩具になる。けん玉やコマなどは初めは呪術の道具だったという。多くの遊びは失った信仰に基づいたり、本来の意義を持たなくなった儀式を再現するものである。ロンドや番決め歌(順番や鬼を決めるときに歌う歌、Choosing Rhyme)も今では使われなくなった呪文に基づく。要するに遊びは、大人の活動のなかで真剣さを失い、無難な気晴らしに堕落した形態だということである。

遊びが文化の基礎

遊びが文化から劣化した形態で再現されたものであるとする主張に対し、まったく逆の立場から遊びを再評価したのがホイジンガの「ホモ・ルーデンス」である。つまり彼は、文化のほうが遊びから出ていると主張したのだ。カイヨワによれば、ホイジンガの主張は、文化のあらゆる重要な表現は遊びを引き写しにしたもので、それを遊びが創造し維持している探求精神、ルールの尊重、超脱によって支配されているのだという。そしていくつかの芸術の規則は、そのまま遊びの規則にほかならない。規則は約束事であり、尊重されなければならい。これが文明の基礎になっているのである。

東洋大学の小川純生教授の解説によれば、遊びとはなにかをイメージすることであり、現実世界を形象化する行為であるという。これが神話と祭祀の形成においても同様の過程が見られる。神話と祭祀がのちの社会秩序や法律、その他あらゆる文化現象の起源であること認めるならば、すべての文化現象は遊びから生まれたと結論づけることができるというものである。

遊びと文化は同時に共存する

これら対象的な二つの説明に対しカイヨワは、この二律背反を解決可能だと考えている。遊びの精神は文化にとって本質的なものであるが、歴史の中で遊びと玩具は文化の残滓でもあり、昔にはそれを生んだ社会において世俗的、宗教的な根本制度の必要部分であった。それは、子供の遊びという意味でなく、ホイジンガが定義した遊びの本質をすでに持っていた。社会的機能は失ってもその本質は変わらず、むしろ政治的、宗教的な意味を失ったことによって遊びとして純化し、遊びの構造を浮き彫りにしたのである。

例えば仮面はその最たる例である。世界的に広まった聖具であるが、現在では玩具の域に落ちているが、いまだに神聖なる機能を保持してもいる。つまり文化が堕落し遊びや玩具として残っている例もあるが、すべてがそうであると言うことはできない。現代でも大人が使う銃火器がまだ廃れてもいないうちから、子供はすでにピストルの玩具で遊んでいることを考えれば、すべての遊びが真面目な活動の屈辱的な最終的形態とは言い難い。

ゆえに、かつては真面目な遊びが子供の娯楽に堕落するのではなく、二つの異なった領域が同時に共存するのではないか、と考えざるを得ないとカイヨワは述べている。さらに、遊びは大人の行為から目的を除去した無難な残滓などでは決してない。何よりもまず、遊びに固有の、遊びを遊びたらしめている特有の性格により、日常生活と対立的だが、同時並行した独立の活動として現れるものとしている。

結局のところカイヨワは、遊びと文化とがどちらが先かという問題はかなり無意味なものだと述べ、この議論に関してはそれ以上なにも書いていない。いわば玉子が先か鶏が先かという不毛な議論にカイヨワは参加する気はなかったのである。