王様の耳は驢馬の耳

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「戦争の変遷」を読んで その一

また戦争の話に戻ってしまうのでどうも恐縮である。人気ブロガーであればこうして読者の心を離れさせてしまうのだろうが、筆者のブログにはそもそも離れていくだけの読者を持たないので気楽である。では本題に入ろう。

今回とりあげる「戦争の変遷」は、以前紹介した挑発的だが示唆に富んだ作品である「戦争文化論」と同じ著者、マーチン・ファン・クレフェルトの作品だ。出版されたのは「戦争の変遷」が先なので、紹介する順序としては逆になるが、どちらの著作も戦争に関しては実に興味深い考察がなされている。なお戦争に対して反射的嫌悪感や忌避感をお持ちの方は前作と同じく読まないほうがよいとおもう。

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核戦争

主要国が保有する重要な兵器は、核兵器とその運搬手段であり、その開発競争は今もまだ続いている。しかし大型爆弾の開発は技術的には可能であるが、現在では為されていない。ウィンストン・チャーチル曰く、そんなものを作っても瓦礫が跳ね返るだけだ、ということである。

またクレフェルトは、核兵器保有することで期待される政治的利益に対して懐疑的である。その理由としてアメリカが1945年からの4年間、原子爆弾を独占していたが、ソ連の東ヨーロッパ諸国に対する影響力増強の阻止に失敗したこと、1948年のチェコスロバキアの共産化を防げなかったこと、支那大陸の共産化も同様の失敗をしていることなどを挙げている。他にも列挙しているが割愛する。

米ソ両国は互いの核兵器を事実上無力化に成功したが、核兵器保有していることによって非保有国に対し優位に立てるわけではなかった。諸々の非保有国の米ソ両陣営のどちらにつくかという判断は、どちらがより強力な核保有国かということで左右された例はない。核兵器の政治的効果が非常に小さい理由として、さまざまな試行錯誤は為されてきたが、地球を破壊せずとも実行できる核戦争の方法を誰も発見していないためである。

クレフェルトによれば、広島と長崎を最後に、これまで核兵器が実戦で使われることはなかったが、核兵器をちらつかせて現状を変化させたことは一例もない。核保有の政治的効果は警告の補強と、現在の国境線の恒久化とに限定されるということである。

非三位一体戦争

クラウゼヴィッツ的世界観は急速に時代遅れになりつつあり、もはや戦争を理解するための適切な枠組みを提示できないとクレフェルトはいう。現在世界各地で多発する戦いのいずれもが、従来の戦争を構成する三つの要素である、国民、軍隊、政府が一体となって為される三位一体戦争に適合しない。現代の武装暴力は国民、軍隊、政府の区別をしていない。

 三位一体戦争は17世紀のウェストファリア条約以降に出現した戦争の一形態に過ぎない。国家という概念と三位一体戦争は、それまでの時代では大凡の国は理解できなかった。戦争の方法は戦争をどのようなものと理解しているかで決定されるからである。現代の政治学者の戦争と国家が一体であるとの説に従えば、最近のテロ、反乱、ゲリラ戦などの低強度紛争は戦争から除外されてしまい、真剣に受け止められなくなると90年代からクレフェルトは警鐘を鳴らしていた。

戦争の変遷

戦争の変遷