王様の耳は驢馬の耳

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「水戸學要義」を読んで その一

今年最後の投稿になる。

さて、水戸学といえば「大日本史」であるが、その編纂事業を計画したのは水戸黄門で知られる水戸藩第二代藩主、徳川光圀公である。この修史事業は明暦三年(西暦1657年)から明治三九年(西暦1906年)までの、二五〇年におよぶ一大事業であった。巻数はといえば、全部で三九七巻二二六冊にも上った。世界広しといえどこれほどの編纂事業が他にあることを寡聞にして知らない。

水戸学とはその修史事業のもと、藩主らと彰考館に集まった多くの学者らによって形成された一種の教学なのである。水戸学の名称は日本弘道会を創立した西村茂樹伊藤仁斎の古学や、林家の朱子学と区別してつけたものである。

水戸学というと偏狭な国粋主義であるとの印象を持つ者も少なくない。しかし、実際はどうなのか。今回取り上げる「水戸学要義」の著者である倫理学者の深作安文は水戸学を表して「歴史主義に基づき、大義名分を明にして皇室中心の国家生活を高調する教学である」と主張する。

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大義名分の意味

普段の我々にとって大義名分の意は、広辞苑によれば「行動の理由づけとなるはっきりした根拠」を指すが、この熟語は本来儒教の言葉である。水戸学における「義」とはどういった意味かといえば、一言でいえば道徳である。だが親子、夫婦、兄弟、友人などの間にも道徳はあるが、君と臣との間の道徳には大きな相違があるため、それに「大」を付けて「大義」とし、その他のものと区別するものである。

名分の「名」は名義を指し、「分」は分限、分際を指す。君には君の名が、臣には臣の名があり、そして、君には君の分限があり、臣には臣の分限がある。であるから、臣は君の為すことを決してしてはならないのである。この名分が乱れれば、秩序も乱れ国家生活が立ち行かなくなる。そうならないために規律を公明正大にし、それに必要な価値基準となるのが水戸学なのである。

水戸学の基本理念

水戸学によれば、もともと我が国は皇室が先に、そして後に民が存した。これは古事記を紐解けば瞭然であり、皇室は日本の本宗なのである。ゆえにこれを「君先民後」とよび、皇室が栄えれば民も栄え、皇室が衰えると、民も衰える。その逆に皇室が栄えて民が衰える、またはその逆が起こるというようなことは日本の歴史にはなかった。であるから、国民は国家生活を遂げるためには先ず忠誠を尽くし、皇室を栄えさせなければならない、というわけである。

しかしこれには議論の余地がある。世の常として支配層が栄えて民が苦しむようなことは時代と場所とにかかわらずどこにでも見られた光景であり、今でもそれはある。日本においてそれがなかったとは言い難い。支配層が物質的に豊かで民は困窮の底で喘いでいたとしても、支配層が「栄えている」とは必ずしも言えない。なぜならそういった状況は道徳的、文化的に式微の状態にあると言えるからである。

大日本史の方法論

大日本史を編集する上での基準になったのは「実を摭(ひろ)ひ疑を闕(のぞ)く」という方法である。さらに、「事に據って直書すれば勸懲自ら見はる」と大日本史の叙文にある。つまり史料のなかには事実と虚偽とが混雑しており、疑わしいものを除くことで、事実を真っ直ぐ書くことができる。それによって自ずと善を勧めて悪を懲らしめることになるということである。要するに水戸学の歴史観は勧懲主義ということができる。

 大日本史の二つの目的

大日本史の大きな任務は「皇統を正閏し、人臣を是非す」るの二点である。「人臣を是非す」とは臣の忠、不忠などを判断することであり、「皇統の正閏」については、正統と閏統、つまり本物とその他とを判断することである。

書き忘れていたが、大日本史は四つのカテゴリーに分かれている。天皇に関する事績を書き綴ったものを「本紀」とよび、皇后、皇子、皇女などを始めに置き、その他の臣下の事績を年代順に並べたものが「列傳」とよぶ。そしてこれらをまとめて「紀傳」とよぶ。さらに日本文化の発展に貢献した人物と物との歴史を綴った「志」、中央と地方との官吏、例えば「公卿表」、「國郡司表」などをまとめた「表」とよび、これら二つを「志表」とよぶのである。

さて、大日本史には三特筆とよばれるものがある。

  1. 神功皇后の伝記を列傳に加えた。
  2. 大友皇子弘文天皇として本紀に収めた。
  3. 南朝を正統、北朝を閏統と断じた。

1と2は大日本史の価値基準に照合して大義名分を明らかにするものである。3は1と2に増して重要な意味を持つと深作は述べる。南朝北朝どちらが正統かという議論は未だに決着を見ない(再燃させている向きもある)が、光圀公はそれらを俗論と見做し、南朝の正統性を主張した。なぜなら三種の神器南朝にはあったためである。彰考館のなかにも異論はあったが、光圀公は所信を貫いた。以上が大日本史の目的である「皇統を正閏す」ることの意義である。

次に「人臣を是非す」ることについて。本紀の次に列傳が書かれていることにはすでに触れたが、列傳の初めには皇妃、そして皇子、皇女の列伝が次ぎ、続いて群臣列傳が来る。群臣とは天皇の家来を意味し、そこには藤原鎌足和気清麻呂大伴家持などの臣下の伝記が収められている。それから将軍列傳が続くのだが、ここには源頼朝足利尊氏などの征夷大将軍らが収まっている。つまり将軍は群臣より下に位するということである。将軍は人臣の身でありながら天下を取ったのであり、名分の見地からすれば望ましからぬ、ということであろう。

ほかに叛臣列傳がある。叛臣とは大義を蹂躙した者を指し、ここには弓削道鏡平将門藤原純友などの名前がある。そして逆臣列傳であるが、これは弑逆した蘇我馬子蝦夷、入鹿、の三名のみが書かれている。このように大日本史全体に貫通する勧懲主義がはっきり見て取れる。これがすなわち「人臣を是非す」ることの意義である。