王様の耳は驢馬の耳

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「水戸學要義」を読んで その二

「水戸學要義」に関する投稿の二回目である。

水戸学は徳川光圀公の第一期の創業時代に続き、徳川治保公の第二期の中興時代がある、と著者深作安文はいう。このとき彰考館にいた藤田幽谷は古学と陽明学を水戸学に取り入れ、実用の学となる。それは息子である藤田東湖が残した次の言葉にも表れている。

「學問は實學に無之候ては却て無學にも劣り申候」

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幽谷の倒幕思想の萌芽

藤田幽谷は将軍は決して王となってはならず、天皇御自らが日本の政治を執る気運を醸成しようと考えており、ゆえに尊王が第一であり敬幕はその次だという思想であった。この思想は次第に倒幕の思想へと傾いていくようになる。その萌芽は既に光圀公の時代から見えており、光圀公自身も天皇は我が君主で、将軍は我が宗家であるという言葉を残していることからも伺える。

水戸学の成立

第二期の中興時代を経て、第三期の実践時代、江戸時代の後期に入ると水戸学はその実行性はますます強まる。このとき水戸学は水戸藩のみでなく、他藩の志士や愛国家が自らの指導理念を水戸学に求めるようになる。それまでの水戸学はあくまで一藩内の学問にすぎず、この時代に初めて水戸学が成立したという意見もあるが、その後は日本の一学問としての地位が固まる。

藩校、弘道館の遅い造設

江戸後期になってようやく水戸藩に藩校である弘道館が造営される。水戸藩は当初から学問を重んじた藩であったが、にも拘らず藩校が建てられるのは天保年間(西暦1831-45年)とずいぶん遅い。これには二つ理由が挙げられる。一つは彰考館がすでにあり、ここで毎月六回講演会を催しており、藩校としての機能していた。もう一つは財政事情で、修史事業はそうとうの金食い虫であったようだ。光圀、綱條の両公はこれに財政の三分の一を充てていたという。

水戸学の包容的特徴

水戸学の特異性を示すのに弘道館記に次の一文がある。

聖子神孫、尚ほ肯へて自ら足れりとせず。人に取りて以て善を為すを楽しむ。乃ち西土唐虞(セイドトウグ)三代の治教の若き資つて以て皇猷を賛く。

意訳すれば、神の子孫である方々は日本だけで十分であるのに、それに満足されず、他国のである支那の長所や美点を摂り入れ、皇国の文化を発展させ、帝の計画を励まし力添えをしてくださる。

つまり水戸学が多分に包容性を持ち、外国文化の特長の摂取に積極的であるという特徴を示す。自大的、排他的であると言われている水戸学であるが、これをもってしてもそうであるとは言えないだろう。

水戸学の綱領は東湖の念願

神州の道を奉じ、西土の教を資り、忠孝二なく、文武岐れず、学問事業其の効を殊にせず。

上は水戸学の綱領といわれるもので、東湖は「学者立志の模範、志士報国の根本」と言った。上を意訳すれば、皇道を謹んで承り、他国の教えを摂取し、忠孝は一つ、文武は別れず、学問の成果を水戸の一藩特有のものにしない、といったところだろう。東湖はこれを水戸学の眼目とし、日本中にこれを弘め、日本人が外来思想にかぶれる恐れのないようにしたいと、会沢正志斎への手紙にしたためた。

著者、深作の水戸学の特徴と日本人の欠くべからざる認識

  1. 唯心論的な世界観および人生観。つまり「道」を中心とする精神主義が公の見解であり、マルクス主義などの唯物論とは対立するものである。
  2. 国体の重視。歴史に照らして国体を明らかにし、我が国の施設、運動は国体の認識を出発点にすべきである。
  3. 独自的精神の旺盛。日本を呼ぶに神州あるいは神国といい、天皇を「宇宙之至尊」というのは、水戸学があくまでも内外本末の別を明らかにするためである。皇統が続く限り日本は「神州」である。
  4. 包容性の豊富。水戸学は外来文化の長所や美点やを採用するもので、外国依存、盲従とは大いに異なる。「もはや外国から学ぶ所はない」などと文化的鎖国は自大的であり、また偏狭である。
  5. 皇運の扶翼。水戸学の根本はこれである。