王様の耳は驢馬の耳

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「平気でうそをつく人たち」を読んで その二

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邪悪性は家族内に広まる傾向がある

邪悪性が先天性のものか後天性のものであるかは、まだよくわかっていない。とはいえ、悪性のナルシシズムの根源に関わる理論で優勢を占めているのが「防衛現象」である。幼い子供の多くが様々なナルシシズム的特性を示すものだが、愛情深い両親のもとで正常な発達を遂げれば、自然と「卒業する」ものだと考えられている。しかしそうでない両親に育てられた子供は、自分を守るために幼児ナルシシズムを一種の心理的要塞として保存するという。したがって、邪悪な親に育てられた子供が、防衛のために邪悪にある可能性があるのだ。

ペック氏のいう「邪悪性」とは

自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである

と、定義する。端的に言えば、弱者をスケープゴートにすることである。邪悪な人間が自身の力を乱用し、支配するには自分より弱い者でなければならず、その格好の犠牲者は自分の子供であることが一般的である。子供は親から逃げ出す自由も力もなく、隷属的であるためだ。本書で取り上げられているペック氏が心理療法医として関わった子供を含む被治療者らより、実は彼らの親こそ治療が必要な場合が大半であった。

悪性のナルシシズムの治療は至難の業

邪悪な人は、自分自身が苦しむ代わりに他人を苦しめる。しかし邪悪な人の苦痛がどういったものかは誰もわからない。彼らは自身の弱さや欠陥を認めることができないため、他人を騙しながら自己欺瞞の重ねていく「虚偽の人びと」である。それを彼らのナルシシズムが要求する。したがって邪悪な人に対して治療を施そうとしても拒絶されるのが関の山で、皮肉なことに心理療法が容易で最も恩恵を受けやすい人は、誠実で正直であり、思考がほとんど歪められていない人なのだ。

邪悪な人びとを支配するのは自分自身ではなくナルシシズムであり、実際に彼らは物事を支配できてはいない。自分では有能だと考え、また他人からはそう見えたとしても実際には見せかけだけで、どこかしらに齟齬が生じているのだが、彼らは決してそれを認めて自分の邪悪性に向き合うことはない。なぜなら彼らは重ねた自己欺瞞が崩れ、他人や自分に虚偽が暴かれることに恐怖しているからである。しかし恐怖は彼らの人生そのものに組み込まれて、それが慢性的であるために、自身では感じられなくなっている。もし感じられたとしても、ナルシシズムがそれを認識することを禁じているのである。

罪人と邪悪な罪人

ペック氏は極めて大雑把な言い方だが、犯罪とは「的を外す」ことであり、的の中心を射損なったときに罪を犯すのだという。罪とは絶えず完全であり続けられず、常に自分の最善を尽くさなかったということにすぎない。しかしそんなことは不可能であるが、最善を怠るごとに法に反しなくてもなんらかの罪、つまり神・隣人・自分自身に対して犯していることになり、そういう意味で我々は皆罪人であるという厳しい考え方をしている。

続けて彼は罪は大小様々だが、罪悪や邪悪やを程度の問題として捉えるのは誤りであるという。悪質さという点で程度の違いはあれど罪は罪であり、仮りに嘘をつけば人を騙すことであり、程度はどうあれ裏切りであるという点で罪であることに変わりはない。嘘をつかないという人であっても、自分自身に嘘や言い訳をしていないかを考える必要がある。もし自分に完全に正直であれば自分の罪に気付くはずで、気付かなければ完全に正直ではないということになり、それ自体が罪である。これは不可避であるから我々は皆罪人だというのである。

では正常な人びとと邪悪な人びととの境界はどこにあるのか。ペック氏は邪悪な人びとの罪悪の定常性にあるという。つまり道徳に背く悪行の一貫した破壊性にあり、その悪行による自身の罪悪感に苦しむことを絶対的に拒否するという態度が境界線を越えた人たちの特性である。

自閉症の特徴

自分を現実に従わせることがまったくできない精神障害を「自閉症」という。精神は自分より高いなにかに従うことで健全性を保ち、それは時に自分より他を優先させることを要求するものである。ペック氏の前著『愛と心理療法』のなかで「精神的健全性とは、いかなることがあろうとも真実に従おうとする継続的なプロセスのことである」と定義している。

自閉症の人びとは自分だけの世界に生きており、その世界において自分が最高の存在として君臨しているために、ある種の現実問題に無頓着になる。この自閉症の究極的形態がナルシシズムであり、重度のナルシシズムになると他人は心を持たない物として見做すようになる。マルティン・ブーバーの「我・それ」と言った状態だけである。