王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その三

社会、世間、世の中などと呼ばれる間柄のなかにおいては孤立的独立的個々人は存在できず、個人は己を捨てることで共同性のうちに埋没することで己を拾うことができるという矛盾を見てきた。ならば間柄を形成する個々人をそうさせる「全体的なるもの」とは何であろうか。

全体とは独立性個別性の否定

「全体」の最も手近な社会として和辻はまず「家族」を考える。家族の成員は夫妻、父母、子供などの資格とそれぞれの役目が家の全体を現している。成員には今は亡き祖先も含まれ、現在の主人といえど今の家を預かっているに過ぎず、恣意によって一家の運命を決めることはできない。彼は「家」を毀損せずに次代に伝える義務がある。

そうしてみれば一つの家の全体性はここの成員を超えたものであるのみならず、また現在の成員全体を超えた歴史的なものでもあったのである。

もし仮に家の成員の行為が成員としてのそれから逸脱するときは家の全体性は強くその存在を現し、その成員に対し圧力を加えてくる。それは「全体から脱し去ろうとする成員を全体の方からつなぎ留める力」であり、ありきたりな慣習では祖先の名や家名によって成員を束縛するものである。和辻は

家族の全体性とは個々人のさまざまの可能性を否定して一定のふるまい方に制限する力である。この制限によって人びとは家族の成員となり、成員の間の存在の共同が実現せられる。

と述べている。ちなみに上にある「さまざまの可能性」とは家の成員が家族を解消するような振る舞いを指す。さて、この家族的共同態は「人間の存在様態」であって、家族を一つの「全体」として見たとしても全体的な「一つの者」があるわけではない。では全体人格と言われているものはどうかといえば、和辻は「全体人格とは個別人格でもあり得る人格が全体性において己れを現したもの」であるとし、「人格は多人格たるとともに一人格」であると述べる。つまり各々の人格は独立した人格でありながら一つになるという、この「独立性の否定」に全体性の意義があると見ている。

統一された多数の個別人格は「一つとなっている限りその独立性を失っているはず」であり、その個別人格の独立性の否定によってのみ一つの全体を形成しているのである。とはいえ個別人格が消滅するわけではなく「独立的なるものが同時に独立しないこと」、つまり「差別的(異)なるものがそれにもかかわらず、無差別的(同)となること」である。

個々人の独立性は共同性のうちにはそれ自身として存在し得ず、共同性、全体性もまたそれ自身として存在できない。また全体性が個人の独立性を否定することで成り立つということは、否定される個人の独立性があるということでもある。同様に個人の独立性が共同性を否定することで、背反される全体性の存在を認めることができる。

そうすれば個人と全体者とは、いずれもそれ自身において存せず、ただ他者との連関においてのみ存するのである。

否定的構造は根本的理法

「相互否定において個人と社会とを成り立たしむる存在」であり、どちらかが先にあるとは言えない。あるとすればそれは否定のみである。和辻の考察は人間の間柄的存在の否定的構造に到達したのである。

この否定的構造は根本的理法であると和辻は主張する。もしこの理法を外れれば、人間存在は存在できない。「自他の結合がすでに自他の分離の否定」であり、主体的な個人が己を空しくし形成された主体的な全体は個人の裏切りや背反を許さない。夫婦が愛によって結合されれば、そこから離れようとする伴侶をそうはさせじと常に強制的に繋ぎ留める。結合とは個々の個別性を縮小し、共同性を拡大させ、全体に服属させることである。したがって「結合はすなわち強制」なのである。

分離・対立することを許さない、相対に対するところの「絶対的全体性は絶対的否定性にほかならない」この構造は絶対的否定性の否定を通じて行われる不断の「自己還帰の運動」であり、これが「人間存在の根本構造」である。ここから外れた人間存在はないがゆえに、和辻はこれを「根本的理法」であるとし、「倫理学の根本原理」として和辻は規定したわけである。

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

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