王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その六

前回、人は「信頼に応え真実を起こらしめることが善であり、この善を起こらしめないことが悪である」という命題に至ったところまで考察を進めてきた。

罪責の意識は裏切りの意識

しかし和辻はこれが果たして古来の善悪の観念に合致するかと問う。現代日本に限らず善とは「目的に役立つもの」あるいは「意欲を満足せしめるがゆえに価値ありと判断せられるもの」であるとしばしば一再ならず語られる。それらは日本語の「ヨシ」という語に当てはまる。ヨキ服、ヨキ食事、ヨキ才能などに表されるが、いずれも善という語を当てることはできない。腕のよい大工でも善い大工とは限らず、逆に善い大工でも腕のよい大工であるとは限らないからだ。

和辻は日本の倫理書において特に注意すべき点として「「善」はもともと善人善行善意として用いられている」ことをあげ、善の概念が「幸福」を含まないと指摘する。

幸福は善ではない。善が言われるのはただ人とその行いとについてのみである。

 歴史的にはこの行為の善悪は一般に「命令的な形」において規定されており、幸福に対して無関係に絶対的な権威を持っていた。もしこの命令が打算的であれば権威を持つことはできないわけだが、和辻によれば古来世界でもっとも広く行われてきたのがキリスト教十戒と仏教の五戒である。そのうち四つの「殺生」「邪淫」「偸盗」「妄語」が共通し、これらいずれも人間の裏切りを禁じるものである。

裏切りの意識は悪の意識であり、ここから和辻は罪責と良心の問題に接近する。「罪責」の概念は西欧から輸入された言葉で、その原語は「Schuld」であるが、その意味は「負債」「負い目」である。この負債はかつて神がイスラエルの民と交わした「契約」である十戒を遵守しないところに生じるものである。神が定め給うた契約に従う限り祝福を保証されるが、これに明白なる意志で背けば生きてはいけない。しかしそれでも生きているならば、それは代償を払わない負債の生になる。悪の意識を負債で表すのは、経済感覚に優れたユダヤ人の特性に起因すると和辻は指摘する。

上のように日本語訳では負債の持つ悪の意識を言い表し難いといって、日本人に負債としての悪の意識がないわけではない。我々は「済まない」という言葉を負債に関しても用いている。そして他人に不利益を被らせたり迷惑をかけたとき、その人に対し「済まない」と感じ、「為すべきことを為さない」信頼の裏切りが未済として残り「借り」が発生するのである。モーゼの十戒にせよ仏教の五戒にせよ、そのいずれもがこの信頼の「裏切りの意識」を神と個人との関係から宗教的に把握したに過ぎない。

 良心の声は自己本来の全体性からの呼び声

人間の行為は真実を起こし、あるいは起こしつつ起こさないものであり、それに従って行為の善悪是非の意識が喚起され、罪責の感情が惹起される。和辻は裏切りを呵責する「良心の声」を絶対的否定性の呼び声と解釈した。それは個人を人間存在の根源である全体性へ呼び戻そうとする声である。ところでこの「良心」という言葉であるが、様々な呼び方はあるとはいえ一般的には「道徳的意識」といって特に差し支えはない。

良心の現象はまず自分の行為に関するもので、他の人の裏切り行為に怒りを覚えることはあったとしても自分の気がとがめることはないが、自分が裏切り行為を働いた場合に自分の内部から自身を「責める声」がこの現象である。そしてまた「責める声」は自分の行為が悪であったという罪責の意識と繋がっており、その時のみこの「責める声」が「良心の呵責」としての意義を持つ。

もし自分の失敗が他人に及ばず自身にのみ帰せられる場合は、自分の迂闊、軽率、拙劣などを責めることはあっても良心の呵責は現れてこない。しかしこれが他人にまで及ぶ時、あるいは他人の信頼に背いた時には自分を責める声は容赦なく迫ってくるのである。

さらに良心の現象には「責める者と責められる者」とが対峙する。責められるのは自分だが、責める者はこれまでの話からは「良心」であるが、これは必ずしも明白ではない。「気がとがめる」場合はとがめる者は「気」であるし、あるいは「理想我・本体我」であり、または「神の声」と把握することもある。さらに悪事が見つかった時の制裁を恐れるその相手として「世間」「教会」「国家」である場合もあるため、責める者が自分自身であるとは限らないのである。

とはいえ、責める者が何であれ、責める声が自分の心奥から聞こえてくることには違いはなく、声の出処が何であろうとそれはすべて出処の解釈にすぎないと和辻はいう。そこで「責める者」と「責められる者」ではなく、「責める声」と「責められる者」の対峙であると見るべきである。この声に反抗すれば「裏切りの是認」であり、従えば「信頼の回復」となり、声に対する態度の別はそのまま人間存在の根源に対する態度となる。

もし声の背後に「世間」や「神」などを立てて考えるならば、それは外圧的な力として感じられる。それへの反抗は時に自己の独立性や尊厳の擁護となり、聴従は「自己の奴隷化」を意味する場合、良心の権威は倒され責める声としてではなく、別の良心の概念である「独立的なる自己の確実性」として把握される。この自己の確信性としての良心はヘーゲルによれば「主観性の偏重に陥り、悪の可能性として、まさに悪に転化せんとするきわどい瞬間に立つもの」であり、さらに一歩進めば「他に対して偽善、自己に対しては独尊となる」ものである。であるから「真の良心は人倫関係における客観的な規定や義務に従って善を欲する心構えである」とされた。

行為する我れの立場は自他分裂し対立する立場であって、本来性を否定する方向において成り立つ。そうしてかく本来性の否定であるというまさにその理由によって、本来性は行為する我れに対する呼び声になる。

その呼び声は「自己における」本来の全体性であるがゆえに、自己の奥底から出て自己を責め、抑圧し、畏敬させる権威を持つのである。

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

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