王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その七

前回は罪責と良心の問題を見てきた。今回は男女関係について見ていきたい。

男女関係は閉鎖的私的存在を媒介にした共同存在

親密な「我れ汝の関係」、つまり男女関係では互いに深い関係を持つことを許し合うだけでなく、さらなる関係に発展することを相互に求め合うものだ。しかし人間は肉体と切り離すことのできない存在であるため、ある関係において互いの参与が「心」に限定されたものであれば、「すみずみまで参与し合った」とは言い難い。「徹底的な相互参与の要求は心身を問わず一切を貫徹せんと欲する」であるがゆえに、それが些細なことであっても徹底的相互参与の実現を欲せず拒むのであれば、互いの関係に亀裂を生むのである。

もし上のような相互参与が彼我の関係において実現されれば、それは一つの「共同的存在」になる。一人の苦しみはもう一人の苦しみであるし、喜びにおいてもしかりである。存在のどの部分も二人によって形成され、「私」はどこにもなくなると和辻はいう。とはいえ「わがまま」までなくなるわけではなく、それを克服するためには「二人共同体における理法が両者を拘束」しなければならない。

二人共同体は上のようにすべてが公共的になるが、公共的なのは二人の間だけに限定され、他の人間は排除される閉鎖的なものであるため、より親密な共同性を実現する。この共同体は私的性と共同性が密接に一体となる。「私的存在を媒介として共同的存在が実現せられる」もっとも顕著な事態である。

男女の愛は自然衝動を出発とする相互参与

共同性の否定において個人が成立することはこれまで何度も説いた。自他に別れた多数の個人が複雑に相対立するわけだが、その対立のもっとも一般的なものが男女の両性である。男女は対立のなかで合一に向かうという「人間存在の動性を、最も端的に示したもの」であると考えるのならば、男女を結びつけるものは自然衝動、つまり動物の雄と雌とをめぐる性の衝動ではないといえる。

事実として自然衝動に任せ雄と雌とに堕落している人は少なくないが、それは倫理的に正常だとは言い難い。それを苦々しく思う人がいることもまた事実である。とはいうものの性的衝動を捨てることはできない。ブルーノ・バウフは性的関係を人格関係として神聖化するために持ち出されるのが「愛」であると説く。この愛は男女の愛として、あらゆる人格を無差別に愛するところの人間愛とは区別される。人格の差別に基づいた唯一回の特殊な個性を愛することで、単なる自然衝動を浄化させるのである。

しかし男女の愛は、単に唯一回で他に類のない個性であるから愛するのかといえばそうではない。

そこで性の愛の妥当根拠は、人格の個性において超個人的な価値王国の形成を具体的個人的に実現するということを、互いに顕わにしまた参与し合うという点にある。

男女が超個人的価値の内容を、つまり人格的全体性を、唯一回的な具体的実現を互いに了解し、互いに参与する。それが他の誰かによって代えることのできない体験愛である。そのうちにあって男女の相互参与は互いの全体を「余すところなく」与え、また取ることであるから肉体も当然そこに含まれる。ここに及んで性的衝動が「必然的な意義」を獲得する、つまり自然衝動の浄化がなされるのである。

性の愛は相手からどんな利益も求めないが、相手をその人格的全体性において所有したいと望む。

愛する者は相手にその心身の全体を、全自己を 与えるがゆえに、愛は人にとって可能な最高の自己没却である。が、同時に愛する者は相手の自己を受け取って己れの自己と融合せしめるがゆえに、従って自己をより高き形式とより豊富な中味において獲得するがゆえに、愛は人のなし得る最高の自己建立である。

心身分離の誤謬

しかしバウフが単なる自然の性衝動のみから始まることが事実として前提とされていることに和辻は疑問を投げかける。和辻は性に目醒める年ごろまでに何らかの男女の愛を、例えば父母・兄弟姉妹の愛を体験しているもので、初めて異性を意識するときにはすでに愛を体験した一人格として他の異性の人格の引力を感じるのだという。従って性の現象において「愛や人格の契機を混じえない単なる自然衝動」のような現象は見つけられないとする。

異性を求めるのは異性としての人格を求めるのであって、自然欲求を満足させるためだけではなく、男女関係ができることは直接的に愛において人格的に関わり合うことを意味する。もしそうではない雄と雌としての関係であればそれは「人倫の欠如態」であろう。なるほど確かに性的関係から愛や人格を捨象してしまえば自然衝動が残るかもしれないが、それは抽象の結果であって具体的現実ではない。身体と心とを性衝動と愛とに分けるのは「抽象的思惟の作為」に過ぎないと和辻は断じる。

惹かれ合う男女が、相手の身体を身体的なものとして愛から除外しないように、身体全体に相手の人格と精神とその個性とを愛するのである。

してみれば、肉体全体は精神の座である。しかもそれは肉体であることをやめはしない。そうしてその点が男女関係においては欠くことのできない重大な契機なのである。

男女の性の別は根源的

そうして見れば肉体の持つ「形」が深い意義を持つことが認められるだろう。女体の「形」の美しさは女性性の全体の顕れであり、単なる肉体的魅力にのみとどまらない。ギリシャ彫刻の全裸像は性器を除去することで、かえって女体の美しさを示す。これは女体の美しさと性的衝動とは直接の関係がないことを示している。それは男体像の性器の大小が少年のそれと同じであっても、男性的な強さには何ら影響しないことと同様である。「形」それ自体が精神性を含む性の魅力を発揮するのである。

してみれば、男体女体の「形」の意義は性別による牽引に存するのであり、そうしてその性別は人間存在における根源的な差別なのである。

ところで、歴史から見れば性の別は、人間が見出した最古の差別の一つであろうし、また原理的に人間存在における根源的な差別の一つだと和辻は書いた。子供が生まれれば最初に尋ねるのは性別で、名前もそれに沿ったものを与え、教育は性別に準じ、風俗習慣が性別に従うように育て上げていく。

かくしてできあがった人は常に男か女かであって、その別を超越することはできぬ。男女の同権あるいは平等が主張せられるということは、それ自体すでに性別に立脚しているのである。

性別があまりにも当たり前のであるがゆえに、かえって男女の無差別を唱えることが新しい真理であるかのように錯覚してしまうというわけである。

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

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