王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「倫理学」を読んで その八

男女関係が性的衝動のみから出発するのではなく、直接的に愛において人格的に関わり合うことを意味するというところまで見た。今回はその続きである。

男女関係における相互参与が心身の全体をもって互いに行われるものであり、第三者の参与を拒むものであることはすでに触れた。

二人の間に完全に「私」が消滅するためには、その共同存在が第三者に対して完全に私的でなくてはならない。 

この共同存在は第三者の参与を拒むことで成立するが、拒むだけで第三者の参与が不可能ということではない。だから第三者が強引に割り込むことも、引き入れることもあり得るため、もし共同存在のどちらかが第三者と肉体的な関係を持ってしまえば、共同存在は容易に破壊されるものである。それが一度きりの些細な出来事だったとしても、共同存在の全面的破壊に通じる力を示す。

男女の合一はどこまでも「私」に属し、それが破られれば激しい主観的な激しい苦悩に陥れる。世界宗教が人の客観的な創造活動の妨げとして排斥すべきとした正当な理由はここにある。つまり男女の私的な愛は広範な人間愛と対立するものなのである。日常を見渡してみても、公共の責務より恋愛を優先すれば非難を免れない。

閉鎖的な私的存在であることを媒介とはするが、男女の愛の合一は人間存在の理法を実現する「最も端的な道」であり、一つの人倫的組織である。世界宗教の権威が著しい時代でもこれを排撃することは叶わず、ついには性的共同存在を認めるに至り、現に夫婦の誓いを教会で挙げている次第である。

さて、単なる男女関係が夫婦関係であるためには「世間の公認」が求められる。ある男女が合一を果たすためには、第三者はその共同存在への参与を「控える」必要がある。それによって私的な共同存在の合一は促進される。

ここに世間が私的存在を公認し、公共性の否定態がそのまま公共的になる。この公認を制度として表現したのが「婚姻」であり、婚姻において男女は夫婦となるのである。

これは世間が二人共同体の私的性格を公認する際には、閉鎖性と持続性とを拘束条件とする。なぜなら公認された二人の関係はすでに「公共的意義」を持つためで、二人の勝手を認めないことの表明であるからだ。和辻は「ここに二人の間の私的存在が共同存在の実現として人間存在の理法に出づることの自覚が見られる」と書く。二人が共同存在としての合一を果たすためには、絶えず対立と合一を繰り返し、そこにおいて二人の共同存在が形成される。であるからここに持続性が必須条件として要求される所以がある。

かくして婚姻は十分なる意味において人倫的組織となり「男女居室、人之大倫也*1」と言われ得るに至るのである。

 和辻は婚姻においてもっとも重要なのは、双方の利己心をどれだけ捨てられるかだという。婚姻の動機がなんであれ、双方が利己心から離れそれを捨てられるなら、それは善い婚姻である。夫婦関係は共同性の実現であり、その和合は「何かのため」ではない。和合そのものが意義を持つ夫婦としての人倫の道である。

もしそこに第三者の参与を許せば夫婦としての裏切りであり、夫婦の人倫の道から外れた行為である。夫婦関係の真実は「私的存在の防衛」にほかならず、人倫的意義を失わないためには私的存在に対して絶対的に忠実でなくてはならない。であれば夫婦の道は共同体の閉鎖性に即し、「貞実」「貞操」などとして把握される。

身体的交渉を重視するのは単なる肉体の物的接触ではなく「歴史的に形成せられる人格的存在の相互参与」であるからで、「その接触の痕跡が人格的存在の全面に残るもの」として私的存在の閉鎖性を覆し、共同性の実現が不可能になるためである。

人格の歴史的存在に関する自覚が明らかに存している社会にあっては、結婚前の体験といえども結婚後の存在を左右せずにはいない。

それは相手の存在にすでに第三者が参与して「いる」ということであり、いうなれば結婚後の夫婦の間に第三者が挟まっていることになる。この介在は夫婦の純粋な合一を不可能にし夫婦の道の実現を妨げるゆえに、貞操は人倫的意義を持つのである。ところがかかる人格の歴史的存在の自覚が薄弱で個人の体験を重視しない社会では、夫婦の合一に結婚前の性的関係は障害にならないばかりでなく、純潔を重んじる思想も出てこない。

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

 

*1:男女が室を同じく(結婚)することは、人倫の大道である。