王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「倫理学」を読んで その十

今回も前回に続いて経済を倫理的見地から見ていきたい。

経済学の謬見と商業の相互奉仕性

経済人とはホモ・エコノミクス」の訳語であるが、近代からの経済学はこの「独立の経済人」を前提として議論を重ねてきた。経済人は自己保存の欲望と衝動とがその存在の最も基礎的なものであり、その充足を目指して合理的に活動するものだとされてきた。しかし前回のトロブリアンド諸島の原住民で示した通り、上の前提とはまったく異なった動機で経済活動を営んでいた。和辻はこれは現代の商品経済においても大きな差異があるとはいえないと述べる。

食欲という自己保存にとって重要な関わりを持つ食品を例に取れば、原始社会において食品は贈り物として取り扱われ、食欲の充足させる品としての性格を「手段的地位」に置いていた。食品が贈り物として作用するのは贈る側の労働が社会的に重要な意義を持っているためである。

従ってこの贈り物は相手にとっても有意義である己れの労働をその相手に贈ること、すなわち相手に奉仕することを意味するのであって、そこに明白に人間存在の表現としての意義が看取せらる。

ただ現代社会が異なる点は「奉仕関係・社会構造の複雑化」である。原始社会では生産者の同族がそれを食べるが、現代社会では生産者は誰が食べるのかがわからない。だからといって奉仕という意義が失われるわけではなく、ただ奉仕の相手が視界の外にあるというに過ぎない。またその生産者は不定の生産者の商品を買うことで相互奉仕が行われているのである。

人は己れの職分において家族共同体や隣人共同体を超えた広汎な公共的共同存在を実現するのである。・・・自分の利福のみに専念し職業に従事することは職分を尽くすことにはならない。公共的な世間のためにこの職業において奉仕する、というのが職分の自覚である。

商業を「世間様」への奉仕として把握していた時代には自明のことだったのだろう。現代といえどもそうでなくてはならないと和辻はいう。

営利追求的経済観の人倫的意義の喪失

近代産業が発展するとともに、商品の生産量も増大の一途を辿ってきた。大量生産は生産者と消費者との間の「人格的接触を排除」し、受注生産にあった「質的な性格」を洗い去ったもので、人々はこれを「生産能率の増進」として歓迎した。製品の質にこだわる者であれば職人の精緻な仕事による作品が高価であっても購入するであろうが、それが「ほぼ同様の功利性」を担っていると大衆が認める限り微妙な質の相違などは無視され、さらに自由競争が加わることで大量生産が勝利を占めるのである。つまり生産活動において「人倫的意義をできるだけ排除したものが勝った」のであり、これが近代産業の運命を決定した。

自由競争において生産者は自分の利益を確保しなければ生き残ることはできず、命がけで能率の増進や功利性の増大に血道を上げる。これを指して「営利が絶対目的」となったと人々はいうが、和辻によれば厳密には、営利を絶対的目的とみる「見方」が勝利を占めたという。

営利はあらゆる人倫的な束縛を脱し、単なる生活手段としての地位を捨て、それ自身に追窮さるべきものとなったのである。が、ここまで来ると営利はただ人倫的意義の外にあるというにとどまらない。営利は究極の目的なのであるから、己れのために有効なものはすべて手段として用いる。

人倫において尊ばれる「正直」さえもその手段とされざるを得ず、「正直に売るほうが儲かる」という最良の政策として採用される。需要者の利益を計ると利他的に振る舞うことを競争に勝つ秘訣とするなど、営利の有効な手段として道徳を利用するわけである。これは経済社会の「人倫的意義を見失った時代」であるのみならず、「人倫的意義を逆倒した時代」である。

経済時代の経済観に人倫的意義の喪失を認め、経済組織の本来の面目が人倫的組織にあることを自覚すること。

これが何よりも必要であるという。

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

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