王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その十一

今回は文化面から人倫的組織に関する和辻の考察を見てみよう。

 

和辻は「家族的存在共同」の閉鎖性を超えた「広汎な人間的存在共同」を成立させる根底には土地の共同と文化の共同とがあるという。土地は人間存在が、特に「家が置いてある場所」としてその空間性を展開させて地縁共同体の素地となるものである。同様に文化は人間存在の過去と未来とを包含し、現在を堅く取り決める時間性を展開させて広汎な文化共同体の素地となる。

文化活動は共同性の表現としての文化財を作ることにおいて人間の間柄を作る働きであり、文化財はこの働きにおいて作られたものとして人間の合一を媒介するものである。

文化財を作るという活動それ自身にすでに間柄的な構造を持っているのである。例えば瓶を作るという活動であれば、瓶は社会的にすでに意味を持ち、その形もすでに定まっており、さらに制作者は社会においてすでに定まっている職業人である。であれば制作者の「作る働き」、つまり創作活動それ自体は個人的なものであるが、同時に共同性の表現なのである。そして制作された文化財はそれを愛好する者同士がそれによって合一し「友人」となることのできる媒介であるということである。

 

上述のように芸術もまた芸術作品のみでなく芸術活動を意味する。和辻によれば芸術活動とは、言語、運動、線、色、形、音などの素材を「感情に適合するように形成する」ことであり、素材の上に実現される形はあらかじめ制作者の心の中にある。そして実現された形は人びとを感動させるが、和辻はなぜそれに感動するのかという疑問に、それが人々が追い求める理想的な形が実現されているのを見ることから来るのだと答える。仮にそれが想像だにしたことのない斬新で珍奇な形をしていたならば、人びとはその形の意味を読み取れず、驚きはしても感動することはないだろう。

であれば、感動する人びとはすでに「自ら」この形を追いかけており、すでに「自ら」知っていたということになる。

作り手だけがこの形を心の中に持っていたのではない。しからばこの形は作り手も見物人もともどもに追求していたもの、すなわち共同追求の目標にほかならない。

裏を返せば、制作者の形の実現は共同性の実現であることを意味するのである。

さて、芸術活動は「感情に適合するように形成する」ものだと説いたが、この「感情」自体もまた帰来の運動としての間柄を生産するものである。慣習的に見れば感情とは「自我が自我自身に直接に意識される主観の状態」か、あるいは「対象的客観的なるもの(特に価値)が露わになる仕方としての我れの作用」のどちらかである。

しかしこれまで論じてきた間柄的な見方をすれば、感情は単に自我のみの主観の問題で片付くものではなく、「相手に規定された意識」であるといえる。怒りの感情は「相手との否定的連関」が露わになるやり方であり、また愛の感情は「相手との肯定的連関」を指し、相手との合一が露わになるやり方なのである。このように感情によって現されるのは人間存在そのものなのである。

人間が分裂を通じて合一する帰来の運動は、そのあらゆる瞬間において己れを直接あらわにする。それが感情である。従って感情は帰来の運動として間柄を生産する。とともにまた感情は間柄として帰来の運動を生産する。

感情は個人的なものでありながら同時に共同的であるため、直接的に感情を伝染させることができる。

このような感情の共同性が芸術の形成作用の基礎をなすのである。一つの形が感情に適合するように形成せらるということは、畢竟この感情の共同性の具体化にほかならない。

 従って芸術作品の意義は、人びとにその本来の一を感得させるところの、人間の合一の媒介者であるということである。そして最も広く長く合一の媒介になり得た芸術作品こそ最も偉大な芸術なのだろう。

 

ある言語が限界を持っているように、言語芸術の範囲も民族に限定される。この限界を超えるにはよほどその言語に親しまなければならない。原語でもって世界の名著を充分味わい得る者は多くはないだろう。訳された作品では原語の味を出し切ることは不可能であるから「他民族の言語芸術は、自国語のそれと明白に区別して、民族の間の芸術の共同として見られねばならない」のである。しかし他国の言語芸術が「不充分に翻訳」されることによってむしろ原語のものよりも味わい深くなることもある。

してみれば、同一の芸術品はそれぞれの民族においてそれぞれ異なった精神的共同を形成するのである。たといそれが全人類的な合一を媒介し得るとしても、その合一は同質的に一様な統一としてでなく、多くの異なった精神的共同の総合としてでなくてはならない。

では言語を用いない芸術ならば普遍的たり得るのではないか。音楽、絵画、彫刻、舞踊などであれば可能ではないか。なるほど単純に意味がわかるという程度であれば確かにそうである。しかし真の意味が味解できるかと問われれば、言語芸術の問題と同じことになるのである。ならば学問はどうかと問えば、やはり同じである。

認識活動そのものは普遍的であっても、形成された学問はそれぞれの民族に従って特性を持っている。すなわち学問の形成は同時に民族の形成である。 

日本と中国を例にあげれば、同じ儒教を学び二つの民族は精神的共同が実現されはしたが、五世紀のはじめに日本に伝来して以降およそ千五百年、ついぞ両国は民族を超えた共同は実現されなかった。英語教育が謳われて久しいが、西洋思想にしてもまた同じことが言えるだろう。

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

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