王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その十二

ここからは第三分冊に入る。ようやく半分を過ぎたことになるが、もうしばらくこの書に付き合うことになる。今回は国家について和辻の考えを見ていこう。

国家とは人倫的組織の人倫的組織

和辻の倫理学では人と人との間柄は人倫的組織として表される。段階的には

家族(夫婦・親子)共同体⇨地縁共同体⇨文化共同体⇨民族・国家

初めの段階ほど私的性格を著しく帯びて、私を超克するごとに共同体が大きくなり、それに従い希薄になるが私的性格は決して無くなることはない。文化が異なる異民族は異端や野蛮人などとして排斥されることからもそれがわかる。共同性は常に閉鎖性を伴うものである。そのためこれまで文化共同体を超えた、私的性格からまったく離れた共同性、つまり人類共同体はいまだかつて存在していない。*1

「「私」をことごとく超克して徹頭徹尾「公」あるところの共同体」それが国家であると和辻は述べるが、上述ように共同体には私的性格から脱することはできないとすれば、国家は公共的と言いながらこの閉鎖的な私的性格に無自覚であるといえる。しかし和辻は「国家のみがその閉鎖性にもかかわらず「公」そのものと呼ばれ得る構造を持っている」と主張する。

国家が以上に取り扱ってきたさまざまの共同体と異なるところは、それがこれらの共同体すべての統一だという点にある。国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのその所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである。

親子関係は夫婦関係を超えるとともに夫婦であることをやめないのと同様に、地縁共同体は家族を超えるとともに家族であることを保持している。このようにそれぞれの段階に発展する際に前段階を保持しているが、その発展的連関を自覚し組織化している段階はない。

しかるに国家は、それらすべての段階を超えるとともにそれらを己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織してるのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる。

 たとえば婚姻は家族や世間に認められるだけでなく、国家の公認を受けて初めて成立し、婚姻の効力も生じる。これが国家の人倫を実現する仕方の一例である。国家は家族に限らず個々別々の人倫的組織の形成を他に代わって包括的に保証し促進する統一した組織である。言い換えれば「人倫の体系」にほかならない。

国家は人倫的組織に関する様々な法規を規定するとはいえ、多様で豊富な人倫的組織の構造や行為の仕方を漏らさず規定しているわけではなく、極めて「輪郭的・形式的」な点のみを規定している。従って国家は人倫的組織が実現されることを目的としながら、最小限の枠組みに関してのみ強制的に実現しようとするのである。このように国家の活動において私的存在が公共的になるのを見るのであって、国家自身の「私」を見ることはない。「「私」を「公」に転ずる運動はそれ自身「私」であることはできない」。 それが国家のみがその閉鎖性にもかかわらず「公」そのものと見られる所以であると和辻は述べる。

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

 

 

*1:「人類を一つの全体に組織しようとする努力は、地上の民族のさまざまな特殊的形成を尊重しつつ、それらをさらに一層高次の段階において諧和にもたらすものでなくてはならぬ。特殊的内容を捨て去った一様化は人間存在の貧困化であって豊富化ではない。」