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「倫理学」を読んで その十三

前回に続いて和辻の倫理学における国家観を見ていきたい。

社会契約論は学者の空想

国家を「人倫的組織の人倫的組織」として見る和辻の見地は、家族に始まり、地方自治団体、宗教団体等々の特殊社会あるいは団体を国家が包含するものとして考えるため、国家を一つの特殊社会として捉え、他の特殊社会と対立させる見地を否定するものである。とはいえ国家がそれらの共同団体と同一というわけでなく、国家の内の「さまざまな共同体を護持し、保証し、そうしてそれらの間に人倫的な秩序を実現する」という「次元を異にした仕事」を担っている。そのため国家は他の共同体と同じ水準で対立させることができない。

それに対し国家を特殊社会の一つとして規定し、他の共同体が持たない独特の機能、たとえば警察・消防・軍隊などに限定し、国家はその任務の上に立つ特殊団体であるべきだとする立場*1がある。しかし国法の大部分は種々の特殊社会の秩序に関係し、それら特殊社会の秩序を通じて国家の秩序となっているのであって、特殊社会の秩序と国家の秩序との間には強い紐帯がある。これを抜き去った国家は実質のない無意義なものだと和辻は述べる。

上のような主張は「国家を打算社会と見る立場が前提となって」おり、「秩序の維持とは個人の利益の保護」に過ぎないとする個人主義から始まる社会契約論が下敷きにあるのだ。ここでは「個人の利益」が究極目的であり、「国家は「私」の上に建立」される。「私」は諸共同体において相当に超克されているが、国家を一つの特殊社会として見る立場は「超克以前の「私」を人の本性として前提する」のである。そのため「諸共同体を国家の契機として認め」られず、利己的個人が一定の土地に集まったものを人民とし、彼らが「合意の下に主権によって統治」されたものが国家だと主張した。そしてその国家の統治に服従するのは個人の利益のためであるから、国家はその利益に従い、またそれを損なわぬよう限定されるべきである。「国家が「公」であるのは、それが最大多数の私を守る」という意味なのだ。

和辻はこのような見方が国家の人倫性を傷つけたと見ている。とはいえ現実に共同体を形成していない単なる個人は存在しないのであるから、国家が本質的に打算社会になったわけではないとも述べている。また主権とて打算的な契約によって作り出せるものでもない。主権は「人間存在の全体性の自覚」であり「自覚を媒介するものは文化共同体」であるから、無自覚な利己的個人には主権がなんであるかわかるはずもない。

従って主権、領土、人民という三つの抽象的な要素が見いだされてくる具体的な地盤は人倫的組織としての国家であって、打算社会としての国家ではない。国家を打算社会とするのは単に一つの見方であって、国家の真相の認識とは言えない。

法の力は神聖な力

国家がさまざまな共同体を輪郭的・形式的に規定することは前回述べた。しかしそれはあくまでも「人倫的組織の輪郭」に関するものに過ぎないが、その限りにおいて国家は「力をもって強制」する。すなわち法による強制である。ではなぜ国家はこのような力を持っているのか。和辻はその手がかりとして婚姻を取り上げる。婚姻の成立を国家が認める条件は少なく常識の範疇を超えないものばかりで、現行法では婚姻当事者間の合意と届け出程度である。他には夫婦の同居や扶養などを命じている。これらが遵守されても婚姻における人倫の道が実現されるわけではないが、国家は教育や指導などを通じて充分な人倫の道が実現されるよう「配慮」する。しかし夫婦の道の行為の仕方を法によって強制することはなく、夫婦の不和を罰する国家はない。

国家は婚姻を崩壊するような「反婚姻的行為を禁じ」る一方、婚姻を存立させるべき「最小限度の行為を命じる」のは、これが守られなければ「婚姻の人倫的な実現は全然不可能」であるため、その「限界点に力を発動」するのである。

この力は、一つの人倫的組織を外護する力として、人倫性そのものから出てくるのでなくてはならない。

では人倫性はいかにして力を持ち得るのか。力は「腕力、暴力などとして反人倫的なもの」と考えられている。しかし法の違反は元来「聖なるものへの冒涜」とされてきた。「法の力は神聖な力であって腕力ではなく、また腕力よりも強い」。法の力は「生ける全体性の力」であり、またこの「全体性の力」がどんな個人の力よりも強い「聖なるもの」だと認められている社会に生まれ、そこで成人を迎えるときには「全体性の神聖な権威」に服従している。また「聖なるものの力は同時に武力」であるが、多数者の腕力が個人の腕力を圧倒するための結束は聖なるものの力である。

国家の力の根源は全体性の権威である。全体性は力強いがゆえに権威を持つのではなく、権威あるがゆえに力強いのであり、同様に国家の法も力強いゆえに法となるのではなく、法であるがゆえに力強いのである。

自覚的人倫的組織としての国家の根本構造は「統治関係」であり、それは憲法に表現され国家のすべての組織はここから派生する。統治関係は「人間存在の根本構造を具体的に表現」し、これを自覚し、現実的に組み立てたものは「国家の全体性」である。国家の全体性は「絶対的全体性」であり他のさまざまな「有限な全体性」を包摂するものとして、より上位の全体性を認めない統治権を持つ。統治権は「根源的な秩序創造の力」を自覚しながら立法し、またそれを実現する「神聖な力」が集中するところのものである。統治権は国内においては統治し対外的には独立を護持する「主権性」を持っており、これを認めることは国家を「究極的な全体性」として認めることと同義であろうと和辻はいう。

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

 

 

*1:最小国家を標榜する自由主義的立場。