王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その十四

引き続いて国家に関する「倫理学」の考察の跡を辿っていこう。

国民の任務は「私」の放擲

個々別々の人格は国家の全体性において否定を通じて「人格的個別性」に目覚め、さらに個別性を否定し全体性の元へ復することによって明白に国家の成員であるとの自覚が生まれ、そうして国民としての人格が成り立つ。それは家族・地縁・文化共同体の成員であることを通じて可能となる。国家はこの「還帰の運動」を実現するための種々の「自由」を保証する。つまり行動・報道・信教・言論・居住移転などの自由がそれである。国民の任務は国家が個々別々の人倫的組織の高次な人倫的組織であるように、国民もまた高次の成員性を持つことである。この任務は上の自由の一切を自ら捨てて、「究極的な去私」を要求する。

防衛戦争は人倫の道

国防は人倫の道の護持であり、その限りにおいて国防は手段ではなくそれ自体が人倫的意義を持つものとして見られねばならないと和辻はいう。防衛は当然攻める国あってのことだが、このような国は征服欲や繁栄欲によって事を起こす点で非人倫的である。

そういう非人倫的な力によって脅威を受ける限り、それを防ごうとしないのは人倫的な弱さを示すものと言わねばならぬ。 

 国民が有事の際に自分の生命や財産を犠牲にすることを厭っていては防衛は果たされない。「私」を捨てられない成員が戦えるはずはないからで、それは言い換えれば「人倫的な弱さ」ということになる。従って戦争を単純に非人道的と考えることもまた「人倫的な弱さ」を示すのである。

とはいえ上述のことは非人倫的な脅威を受けた場合のことだと和辻は釘を刺す。何らの脅威もないにもかかわらず軍備を逞しくし、他国に挑むことは非人倫的であり、もしあらゆる国家が人倫的であれば戦争は根絶するだろう。しかしそれはあらゆる個人が人倫的であれば法律も裁判もなくなる、と言うようなものだ。「人倫の道が当為として課せられる」のは「自然的傾向」があるからで、同様に国家もまた繁栄と国民の福祉に努力するのは自然なことである。その発露が「侵略、征服、戦争」などとなるのである。

「義勇奉公」が国民にとって必須の条件であり、それは国家が軍備や戦争を放棄した場合でも同じだと和辻はいう。国家の危急は人倫の道の危急であり、それを救うのは「道義の勇気としての義勇」である。

人はこの義勇において己れを空んじ全体性に生きるという人間存在の真理を最高度に体験することができる。

政治に関わる者の心構えは滅私奉公

法は人倫的組織の輪郭に関わる最小限度であるがゆえに、それの遵守は当然であろうが、国家を一つの特殊社会と捉えたり、あるいは国家を時の政府と同一視する立場から国法を軽んじられることがある。和辻はこの問題を重視し官吏、公吏、政治家などにとって国法遵守は特に重要だと述べる。公職に就く者は「寸毫といえども私を混じえてはなら」ず、「滅私奉公」を規範としなければならない。

特に一定の権限を定められている地位にありながら、その権限を超えて己が主張を押し通そうとするごときは、国憲を軽んずることのはなはだしいものである。当人が自分の主張の正しさを確信し、毫末も私を交えていないと考えている場合でも、それは許されるべきでない。

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

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