王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その十五

歴史は国家の自覚

人間存在の構造として空間性と時間性とがあることを以前に触れた。交通と通信は人間存在の空間性を現し、その空間的な主体的ひろがりは同時に「主体的人間の時間性」を現す。

人間存在は主体的にひろがっている。が、そのひろがりは、主体的な連絡として、既存の間柄を担いつつ現前の行動において可能的な間柄を目ざす、というごとき構造を持たざるを得ない。

 

個人の現前の行為を決定するものは、その個人が背負った過去であり、その過去は間柄によって規定されると同時に「目指していく未来」を現す。つまり過去と未来は同一ということにり、現前の行為は同一の過去と未来へ「帰来」する運動である。主体的な倫理的行為の相互の関わり合いとして人間存在を捉えれば、それは時間性ということになる。であれば、人間存在は人倫的組織として実際に現れ、相互の関わり合いが「家族、地縁共同体、文化共同体、国家等の諸段階を通じて具体化せられることは、同時に時間性の具体化にほかならない」。

帰来の運動は家族共同体の閉鎖性を超えて、地縁共同体においてさらに展開する。それは人智でもって把握することのできないほど多様な「個性的内容」を持った形で現れる。しかし和辻は過去も未来も豊富であるが、過去は「整理統一を許さぬもの」ではなく、また未来も「当為を原理的に把握する」ことで「その実現を規制」することが可能だという。つまり過去の内容を「一定の統一的視点」の下で「歴史」として把握し、未来は「道」として規制するということである。

「一定の統一的視点」のこの統一とは「人倫的組織を貫く統一」を指し、和辻はそれを国家が発見したものであると述べる。和辻の歴史の定義は以下の通りである。

 歴史とは、国家を形成せる統一的な人間共同体が、超国家的場面において自己の統一を自覚するとともに、この統一的な共同存在の独特な個性を規定している過去的内容のうちの主要なるものを、共同の知識として何人も参与し得るごとき客観的公共的な形に表現したものである。

上述の「自己の統一を自覚」した国家は、必ず他の国家の存在を認め交渉をしている。そのような「国家と国家との間の交渉関係」が「超国家的場面」であり、このような場面において「国家は歴史を形成する」のである。要するに「歴史は国家の自覚」であり、それには他国という媒介が必要であったのである。

人間存在の空間性

人間存在の空間性とは主体的実践的な連関としての「主体的なひろがり」であり、多数の「主体に多化しつつ合一しようとする」運動である。それこそが根源的な空間であって、そのひろがりの度合いに応じて客観的な空間、つまり交通や通信などとして現れてくる。それは物事の「あらわになる主体的な場面」であり、すべての自然的対象の発見を可能にする「理解の根源」である。

人間存在の人倫的組織の組織化は空間性の具体化であり、たとえば「家」という空間は家の共同体である家族と結びついている。同様に「村・町」と呼ばれる空間は地縁共同体は隣人らとの土地の共同の上に形成される。文化共同体においては地縁共同体が土地の共同であるのに対して、精神の共同を実現する。それらの諸段階を統一する国家は、「領土と本質的に結びついている」。このような具体化を経由することによって空間性は「風土性」を現してくる。

土地は通常単なる自然現象として把握されるより以前に「主体的な人間存在の契機として実践的に了解されて」おり、さらに「土地とは田畑であり山林であり、あるいは所有地であって、単なる自然物ではない」。風や水も、どれだけ威力を増そうがそれ自身は「暴」風、「洪」水とは言われない。それらは田畑に恵みをもたらすが、時には荒らすがゆえに暴となり洪となるのである。言い換えればそれらは人間存在において測られなければ、暴にも洪にもなりえないのだ。

従って土地や風や水のごとき現象が純粋に自然現象として把捉されるためには、人間存在の契機としての性格をことごとく洗い落とさなくてはならない。すなわちはなはだしい抽象によって人間存在から開放されなくてはならない。

田畑の稲や麦も人間の営為よって作り出されたもので「自然のまま」のものではなく、あくまでも「人間存在の現象」なのである。その田畑も一、二年放置すれば雑草の生い茂る脆弱な、「きわめて人工的なもの」である。人間の営為に依存する度合いでは衣服や家屋より目立って人工的である。それは田畑に限らず山や丘、森林や河川、道路も同様である。「原始林」は「きわめて稀有な現象」で保護せねば「湮滅に帰するもの」であるため、原始林そのものも保護という人間の営為によってのみ存在し得る。それほど人間の手が加わらない森林は少ない。

土地はこれら一切のものを包含する。従って土地の共同とは、これら一切の現象における人間存在の共同である。

村人たちは物心のついたときから田畑が「誰かの労力の敷き詰めてある土地」として接し田畑と交渉しはじめることは、村落的な「存在共同の場面において」田畑に出逢うということである。我田引水がエゴイズムの表現として用いられるように、田畑は「共同存在の表現」であり、その共同存在から「「われ」が分離することにおいてのみ、田畑は「わが手のもの」すなわち「われの持ち物」になる」。このような「存在の共同」は「常識が理解しているよりも遥かに根強いもの」である。 

倫理学〈3〉 (岩波文庫)

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