王様の耳は驢馬の耳

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「成熟と喪失 ”母”の崩壊」を読んで その一

本書の作者である江藤淳は「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を通して、現代の「母」の不在を論じている。それは明治の文明開化から始まり戦後の現在でも進行している。

母子密着の日本社会

エリク・H・エリクソンによればおおかたのアメリカの青年は、「母親に拒否されたという心の傷を負っている」という。なぜアメリカの母親が我が子を拒むのかといえば、「やがて息子が遠いフロンティアで誰にも頼れない生活を送らなければならないことを知っているから」で、カウボーイとして孤独に耐え得る独立した人格を育てるためである。これに対し日本の母子関係は肉感的なほど密接に繋がっている。それは日本の民族性は「農民的・定住者的」であるため、血縁と大地とに結び付いていなければならないためであろうと江藤は考えている。

明治以来、日本の農耕社会に近代が入り込み、それまでの母子関係を脅かし始めても依然として母の影響は弱まることなくむしろ増大し、一方で父のイメージは反比例的に希薄化する。多くの母子にとって父は「恥ずかしい」存在として扱われ、「出世」に対する価値観も共有するため母は子の出世に強い影響を及ぼすまでになる。つまり母が父のような「恥ずかしい」職業ではなく、誇れるような就職を子に望むのである。

もし息子が「父」のイメイジに自分を一致させようとすれば、それは「進歩」の否定として社会心理上の制裁を受けなければならない。この社会で「進歩」がほとんど無条件にプラスの価値と考えられているのは、「進歩」が「西洋」=「近代」に対する接近の同義語だからである。

「父」を「恥ずかしい」と感じるのは西洋人と比較して抱く感情である。

注目すべきことは、この「進歩」の過程で社会が急激に崩壊して行くということである。いいかえれば、「父」によって代表されていた倫理的な社会が、次第に「母」と「子」の肉感的な結合に支えられた自然状態にとりかこまれて腐蝕して行く。

かつての「父」は自ら倫理的で知的な役割を自覚し実践していたが、母子の自然的関係によって崩壊していき、徐々に権威を失っていくのである。この過程は文学史的には日露戦争直後からということになる。

江藤によれば社会は「「父」であるような「神」の下でしか構成され」ず、秩序は「責任」「倫理」「契約」の上に成立する。そのなかで各々に「役割」が与えられる、「禁止と限界によって支えられた体系」であるという。しかし近代日本は「「恥ずかしい」父のイメイジを極力消去して来た」ため、「神」あるいは「神性」は「母」に渡った。

それは自然神的なものであり、「父」である神が倫理的であるのにたいして肉感的であり、「父」が「子」を有限のなかにとどめて「救う」のに対して「子」を無限に受容して限りない至福をあたえるものである。

 「母」の崩壊は、「子」に無限の負担をあたえずにはいない」ため、子はいつまでも成熟できずにいるのである。

男のようになりたい女性

一般化されすぎかもしれないと断りつつ江藤は、「「近代」が日本の女性に植えつけた一番奥深い感情」は「男のようになりたい」という欲求であり、言い換えれば「女である自分に対する自己嫌悪」と述べる。この感情は「あらゆる近代産業社会に生きる女性に普遍的な感情」であり、「近代」が光り輝く「獲得されるべき幸福」とだけ考えるのは日本女性に特有のものである。それは自己嫌悪の裏返しだと江藤は見ており、それはおそらく社会が急激に変化し、急激に生活水準が向上するなかで「「成熟」する余裕を奪われた女性に生じる自己崩壊のあらわれ」だろうとしている。

敗戦の屈辱感と貧しい農耕社会に対する羞恥心とが重なり、「人工」国家であるアメリカを「自然」国家である日本の上におく価値観が芽生え始める。産業化の波のなかで「自然」は恥じるべきものとなり、「自然」にとどまる日本人は「置き去りにされ」てしまう。農耕社会から昭和三十年代に始まる産業社会への急激な変貌の原動力となったのは、「置き去りにされる」という女性的な不安である。エリクソンによると「あらゆる女性的な不安のなかでもっとも根源的なものは、この「置き去りにされる」不安」であり、「女性が幼児期に経験する、もっとも深い性徴の自覚と結びついている」という。

「置き去りにされる」という不安の裏には「出発したい」という欲求があり、戦後に経済再建の目処が立つと日本人は「一挙に恥辱の源泉である「自然」を抹殺すべく、猛烈ないきおいで「出発」したのは、きわめて当然だった」。この「出発」は現実の女性にも大きな影響を及ぼす。

もし女であり、「母」であるが故に「置き去りにされる」なら、自己のなかの「自然」=「母」は自らの手で破壊されなければならない。しかも産業化の速度がはやければはやいほど、この女性の自己破壊は徹底的なものでなければならない。

昭和三十年代から特に顕著になった母性の自己破壊は、おそらく上のような理由からであろうと江藤は見ている。 

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

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