イスラム教の基礎知識的な随筆 その三 スンニ派とシーア派
両派どこがどう違うのかはあまり知られていないように思えます。詳細は各自で調べていただくことにして、ここでは簡単な概略に触れてみたいと思います。
まずイスラム教の信仰は根本的に簡単です。ですが、むしろそのために教団の発達は混沌としてしまいます。
信者はただ教徒である自覚の他は、国体、団体、その他諸々の一員だという意識を持っていなかったのです。ただ神に従ってさえいれば、理想の状態になるというのがムハンマドと信者の信念でした。
故にムハンマドは指揮権が如何にして誰に付与されるかに就いては、全く言及しませんでした。そのために後々の時代まで大きな混乱を招きます。つまり端的に言うと、カリフ*1(後継者)選びの違いがスンニ派とシーア派の大きな違いなのです。
まず最大派閥スンニ派ですが、スンナ(Ahl as-Sunnah)は慣行という意味で、これはイスラム教初期に於けるカリフの慣行に沿って、つまり選挙によって後継者を定めるべきだとする立場です。
対してシーア派は、後継者は必ず今日その血統を引く者であるを要すると主張しているのです。
それ以外両派は大きな違いはありません。以上です。呆気ないですか。では少し歴史的経緯を下に紹介して終わります。蛇足ですので、読まずとも結構です。今回も読んで頂きありがとうございました。
西暦632年、ムハンマドが逝去した後、教団は後継者を誰にするかという重大な問題に突き当たります。ムハンマドには娘しかおらず問題解決にはアラビアの慣習に倣って選挙によって定める他なかったのです。
結局初期からの帰依者であるアブー・バクルが選ばれ初代カリフ、つまり後継指導者の座に就きます。
アブー・バクル*2は在位僅か2年でこの世を去り、その死に先立ちウマル*3を指名した。彼は統治者及び、組織者*4としてその非凡なる才能を発揮します。それに拠ってシリア、メソポタミア*5、ペルシャ*6、エジプトを次々に征服しました。
が、在位10年、ペルシャ人*7の凶刃に倒れます。それと同時に、彼の築いた制度も倒れてしまします。
ウマルは、瀕死の中で後継者を指名すべき6人の委員を指名します。その6人が選んだのがウマイヤ家のウスマーンです。ウマイヤ家はもともとムハンマドのハーシム家と長い対立を続けてきた家です。実はイスラム教徒でもなく、ムハンマドに面従腹背を続け来ただけで、その間ずっと復仇の機会を窺っていたのです。
そのためウスマーン*8が即位するやウマルまでの努力を中絶し、専らウマイヤ一族の権勢を張るだけに腐心に至ったのでした。必然的にもともと独立心の強いアラビア人の間で部族的精神の再興を惹起せしめたのです。
言うまでもなくウマイヤ族以外の教徒は激怒し、各地で反乱を呼び、反対派の台頭を招いた結果、今日のペルシャにシーア派の先駆けをなす派閥が生まれたのです。
彼らはムハンマドの一門がカリフであるべきであると主張し、カリフの選挙制度を否定し、神意によって後継者を定めるべきであるとしました。その主張は教徒の間に多数の同志を得たのでした。
今回は以上です。次回はイスラム教の拡大に関して書こうと思います。最後まで読んで頂いて感謝です。