王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

神道は宗教か

市議会議員から教えて頂いた記事を紹介します。

先日キリスト教徒の方へ常々疑問に思っていたことを質問をしました。それは、もしご皇室に対して崇敬の念を抱いているのなら、どうやって御皇室とキリスト教を自分の中に矛盾なく共存させておられるか、というものです。

www.nippon.com

 

 と言うのも、一神教は他教を認めることは涜神に当たるからです。日本人は天皇を頂いた宗教国家です。キリストを受け入れるならば、神道は否定せざるべからざるものです。

 
そうであれば、もはや日本人とは言えないのではないか*1。逆に神道の中でのキリスト教は有り得るのか。そんなことができるのか、などなど。
その方は上手くは説明できないが、矛盾はないとのことでした。私としては少々不満の残るお答えでした。

上の記事で紹介した外国人神主でいらっしゃる、ウィルチコ・フローリアンさんは神道は宗教(religion)ではないので、異文化を受け入れ取り込めるのだと仰ってます。
説得力のあるご意見です。ではreligionではないのであれば神道とは何でしょうか。
 
まず最初に考えておきたいのは、そもそもreligionとはなんぞやということです。広辞苑の説明は宗教としての解釈ですので、ここでは置いておくとしてOxford Dictionary*2に拠れば「 超人的な支配力の信仰と崇拝、特に特定の神または神々」と言ったところですか。*3
 
この定義なら神道も十分religionの範疇に入りそうです。しかしフローリアンさんの解釈はかなり突っ込んだものです。それならこちらも語源まで視野を広げてみようと思います。
 
と、思ったのですが、religionの語源は定まってはいないようです。分かった範囲で述べれば、ラテン語でreligionを「religio:レリギオ」と言い、「religare:レリゲア」(固く結びつける)に由来するのです。

他に「religio」は著名な語源学者に拠ると、「神と人との契約」、「義務の場」などの意味であります。キケロ*4は「取り集める」、「再読する」と主張しております。
 
これらを纏めますと、religioとは、神との固い紐帯があり、契約し、義務を果たすこと。更に加えれば神話なり教典などを取り集め、それを(何度も)再読し、他者と共有することで固く結び付けられることと言えます。
 
上記の前者がreligioの絶対条件であれば、後者は必要条件に留まりそうです。後者は満たすが前者を満たさぬ神道は古義的にreligionではないと言えそうです。そしてreligionが教義や律法を持つ反面、神道には確としてそれがないのも大きな否定材料になります。
 
で、最初の問に戻りますが、神道が厳密にはreligionでないとすれば、一体なんなのか。実に難問です!愚見を晒せば、これと定めるべきではない類のものではないか、と考えます。
 
つまり、日本の神道は奈良以前には自覚の外にあって、神道という名称も仏教が伝来して以来のものです。異教と区別するために生まれた名です*5
 
神道とはこうである、と定めれば、道も定まり、あるいはreligionとしての体制も整えられるかもしれません。しかし、融通無碍なる大道は失われてしまう恐れがあるのです。わからぬものはわからぬままに、いや、わからぬがゆえに畏れ敬えうのも一つの正しい信仰の形ではないでしょうか。

 
大道無門

千差路有り

此の関を透得せば

乾坤に独歩せん*6
 
上は禅ですが、通じるものがあるのではないでしょうか。
「不合理なるが故に我信ず」*7
理性にだけ頼ると見落とすものもあるのです。体系的、論理的に説明すると、むしろその本質を損なう危険もあります。霊性的直感*8、全身全霊でもって把握するという方法もあるそうですよ。
 
あまり纏まっておりませんが、疲れたのでここで終わりたいと思います。
今回も最後までお付き合いいただき感謝です。

*1:御皇室を敬わない、認めない者は日本人ではなく、お客さん(外人)だと個人的に考えております。

*2:最高権威の英語辞典。

*3:怪しい英語力での翻訳です・・・。

*4:マルクス・トゥッリウス・キケロ(前106年ー前43年)共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者。

*5:無自覚だからといってないというわけではない。

*6:支那、宋の時代の無門慧開(むもんえかい)という禅僧が残した「無門関」の中の禅問答からの由来。以下は意訳。

*7:神学者テルトゥリアヌスが言ったとか言わないとか。

*8:詳しくは鈴木大拙の「日本的霊性」を。