王様の耳は驢馬の耳

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「勞」働と対価について

繁忙期もようやく終わり、その間「労働」についてつらつら惟んみた事など書いてみたい。労働の定義は頭や体を(或いは心も)使って働くことだが、その主なる目的は生活の糧を得ることであることは概ね同意を得られるところであろう。

 
ここで思うのは、労働の真価は何であるのかということだ。労働の価値を決定する最もわかりやすい基準は金額(対価)で表される。しかし労働の価値とはこれだけであろうか。

 

 ところで、労働の「労」の字は略字で、正しくは「勞」と書く。*1

意味は「いたわ(る)」、「つか(れる)」、「ねぎら(う)」、「はたら(く)」である。
「働」は「はたらく」そのままで宜しかろう。*2
 
注目したいのは「ねぎらう」である。語源は奈良時代の「勞ぐ(ねぐ)」で、神を慰めて恵み(加護)を祈るという意味だそうだ。*3
 
神の骨折りに対し、感謝を表す。これが本来の「勞」であるとすれば、労働とは感謝されるものでなければならないと言うことができる。そうであれば労働の真価は感謝でもって賄われねばならない。これを視野に置いて現代を振り返ってみると、考えさせられるものがある。
 
思うにお金ほど便利なものがこの世にあろうか。量ろうと思えば人の価値まで金額で表せてしまえる。そして目に映らぬ、手にも触れられぬ実体の無きものや、神秘的なるものなど金額で量り難いものは等閑に付すのである。
 
「世の中カネじゃない」言うは易しだ。ではカネ以外に何があるのか。確と答えられる者は少ない。

宗教なき民が、目前の快楽を以って人生の目的とすることは、最も平凡な事実である。

 上は大川周明の言葉である。さはさりながら、大衆の快楽希求が技術的進歩を力強く後押しすることも事実である。だがそれだけに終止し、技術とその革新が我々の諸問題を取り除いてくれると信じ、精神で解決が着く問題、或いはそうすべき物事にまで技術に頼るのは盲目的技術信仰に他ならない。

我々は「勞」働に対して金銭だけでもって報いて、それで能事足れりとして仕舞ってはいないか。お金の便利に頼りきらず、せめて勞らう気持ちだけは心に留めたいものである。

 

*1:篝火を燃やすように力を燃焼させ疲れる、それを労うの意。

ところで、ほんの数画を略する意味がどれほどあるのか。

*2:人が動くという意味から働くという国字が鎌倉時代に作られた。中華では労動と書く。

*3:禰宜(ねぎ)」や「願う」もここから派生する。